【廃墟】摩耶観光ホテル(マヤカン)(その1)山を登る
かの有名なマヤカンこと摩耶観光ホテル。
その美しい独特の空間は、数多くの廃墟サイトでお馴染みとなっています。
行かずに死ぬのはどうかと思うので小唄氏(後輩、これ系の道では先輩)に連れられて潜入する。
( O^−^)b おこつ箱。
縁起が悪いな。
合掌通過。
橋を渡って、川沿いのハイキング道から潜入します。
摩耶さんのマップ。かなり古いです。
当然のごとくマヤカンがどこなのか全く分かりません。
今からここを突っ込んでゆきます。普通のハイキング道ですねと甘く見ていたが、この後、廃人のように辛くなった。例えるなら、くそです。くそのようでした。
朝の7時前。
夜の闇の衣を剥いで、夢がさあっと覚めてゆくように朝が満ちていきます。
まさか十数分の山登りでハアハアに息を切らしているとは信じたくもない現実でした。ショック。
「ちょ、ちょっと、まって」「ハアハア」「ハァハァ」何をしに来たんや私。
小唄氏「あれ? あれもしかしてマヤカンじゃないっすか?」
私「え。ああ。へえ。あ。 え!?」
人生初の本格廃墟にどきむねします。
「ペキッ」「ミシッ」
「ミキッ ミキッ」「ベシッパキッパチッ」
崩れ落ちた階段。
位置的には裏手になります。本来の「正面玄関」は、マヤカンのすぐ裏に立つ摩耶ケーブルの駅(現・「虹の駅」)側から接続された、ホテル3階部分の入り口になります。山の斜面に建てたのでそのような仕組みになっているとのこと。
正面玄関は駅の展望台から手を伸ばせば届くほど近い距離にあり、姿を隠すものがないので危険です。
マヤカンは神戸市が立入禁止として柵を設けたりしているので、無許可で侵入しているのが発覚した場合、通報されるそうです。
角を回り込んだところ。見上げてみました。
まだ全容が掴めません。あちこちにツタが絡み、そのまま枯れていて、風格があります。
紅葉には少し早い時期ながら、木の葉は既に落ちていて寂しい雰囲気が漂います。
山道からの側面は一様に、この古い校舎のような黒っぽい壁です。
大昔、竣工当時の写真を見ると、物件全体が白い色をしていたようです。
照り返す光も寒々としています。
摩耶山の中にひっそりと沈んだ廃墟にふさわしい、冷たい色。
ここが観光地として開発されたのは1920年代です。
近隣の六甲山に別荘地、ゴルフ場等が開発される中で、それまで参拝客の集客のあった天上寺を擁する摩耶山にも開発計画が持ち上がります。1922(大正11)年10月,摩耶鋼索鉄道株式会社が設立され、1925(大正14)年1月にケーブルカーが開業します。
1929年5月にはホテルの工事を開始、11月にホテル竣工。
名称は「摩耶山ホテル」や「摩耶山温泉ホテル」とその後も様々なパンフレットに記載されます。
その後、戦争の激化により金属回収令が出され、ケーブルの線路や銅線が回収に。ケーブルもホテルも営業停止に陥ります。
少しずつ歩を進めてゆくと、押し倒された立入禁止の封印がありました。
先駆者に皆が続きすぎてすごい分かり易いことになっています。
マヤカンの周囲、ケーブルの路線を挟んで、昔(1960年代)は遊具を置いて憩いの場としていたようです。今や完全に藪、山林なので、後から言われても「そんなわけあるか!」と思うんですが。
ちなみに、現在では摩耶ケーブルの駅の先に摩耶ロープウェイが続き、山上の「星の駅」周辺に「摩耶自然観察公園」「掬星台」(きくせいだい)など、自然散策スポットが展開しています。ここはやはり60年代に「奥摩耶遊園地」として開発され、様々な遊具があり、「マウントコースター」というミニコースターが走っていたとのこと。
そんな開発の面影がもはや全然感じられないので、歴史を紐解くと驚かされるばかりです。
見事な破り方です。誰だこんなんしたん。もう辛うじて立ってるだけの状態。
中が見えます。フロアの地面は状態良好のようです。廃墟は足元に気を付けないといけません。
ドキドキします。
今来た道を振り返ってみる。
足元はゴミ、廃墟の破片などで雑然としています。ドラマチックなものではありません。
本当に「遺棄された建物」に過ぎません。ここまでは。
建築様式は何調と呼ぶのか知りませんが、大正時代にこれをデザインしたかと思うと、非常にお洒落ですね。
戦後、1960年に別の事業者に譲渡された後、内装をよりフランス風にしてホテル業が再開されます。ここで「摩耶観光ホテル」が正式名称になります。元々、軍艦のような形状をしていたので「山の軍艦ホテル」と呼ばれていましたが、内装もフランスの客船を模すことでより船舶っぽいホテルへ。
ところが60年台後半(70年台?)、集中豪雨で土砂崩れが発生し、塩害の影響を受けてまたもホテルが営業停止。閉鎖されます。
1974年には、学生サークル等の団体客にのみ開放する「摩耶学生センター」としての営業を開始します。
が、1976年。天上寺堂塔の大半が焼失します。
ケーブルを利用した参詣客が来なくなったため、客離れに拍車がかかります。
この天上寺堂塔がより上、山頂付近に再建されたため、観光地・参詣地としてのコアを失ったマヤカン付近そして奥摩耶遊園地からは、遊園地自体そして飲食店など店舗が撤退します。老朽化などにより既に衰退していたそうです。
決定的となったのはその後のマヤカン内の火災(1980)、管理者の体調不良による「摩耶学生センター」廃止=廃墟化(1993)、阪神大震災(1995)の流れです。これらの要因により、マヤカンはひっそりと山中に取り残された沈黙の沈没船と化します。
様々なサイトで紹介されていた歴史をごく簡単にまとめると、このような流れです。
かなり詳細に、当時の観光パンフレット等を総動員して分析しているサイトもあり、必見です。
絡まるツタは繊細で、複雑怪奇。こうなるまでにどれだけの出来事を経てきたのか。
次回はいよいよ内部へ。。