【東日本大震災】2011.5/1_宮古市街・田老町〜釜石市山田町・両石町
南下を続けて、沿岸部の町;宮古市田老町に到着。
言うまでもなく全滅。
もう午前8〜9時と、自衛隊の方々も本格的に作業に入り、専用車が行き交う忙しさを見せていたため、市街地には触れずに、川の東側;作業員の入っていなかった野原、乙部エリアにて、車を置いて自分の足で歩いてみた。
wikiで調べれば出てくる通り、リアス式海岸の奥にある町のため、津波被害を受けやすく、明治から昭和にかけて度々町が襲われている。そのため「総延長2.5kmにも及ぶ高さ10mの防潮堤を建設」という徹底した対策を講じており、1960年のチリ地震の際に発生した津波を完封したという。
そこまでの対策が出来ていたにも関わらず、今回の東日本大震災では、田老町は壊滅した。
1958年最初の防潮堤が完成し、その後も延長を続け、1982年には高さ10m、総延長2500mという砦のような堤防で町は覆われることになった。しかし、今回の津波は、圧倒的な水量、質量と複数回押し寄せるという波状攻撃によって、堤防の脆い部分を突き崩してしまうというアグレッシブなものだった。津波の正体は水であるから、乗り越えられる穴があれば、そこから一気に流れ込む。加重と勢いによって更に破壊が進めば止めようがない。
★Link 宮古市港湾事務所HP
http://www.pa.thr.mlit.go.jp/kamaishi/bousai/b01_02.html
「万里の長城」の輝かしい名も今や・・・
町民の方々には、このスーパ−堤防への信頼と安心が根付いていたため、高台への避難をしなかった人も多いという。結果、津波に呑まれてしまったとか。しかし今回の津波は発生までの時間が短く、その場で瞬時に「スーパー堤防は決壊するか否か」を判断するのは困難ではなかっただろうか。私ならきっと家に留まってyoutube見てそのまま流されてる。
川沿いを歩き、市立田老保育所の隣を歩いていくのだが、「保育所」など跡形もなかった。
津波は山側の木々にまで迫っていた。
奥に見える白い建物が「たろう観光ホテル」。
すっきりしすぎていて現実感が薄い。
「OK」の意味は「撤去OK」か、それとも「遺体確認済」なのか。
基礎だけ残して家が消滅。
家人が無事なようで、こうした書置きを見ると非常にホッとする。
自動車ってこんなにクチャクチャにひしゃげるものなのか?
大災害の時に車に乗って逃げたら逆に危ないという良例です。
実際、大地震の直後は避難といって、車にみんなが飛び乗った上に、電気が止まっていたため信号は付かず、一気に渋滞。そんな中に大津波が来たから完全に詰んだという。
これが「あなたの家です」と言われたら泣くというより笑ってしまうと思う。
何かの取材でも、悲しみを通り越して「笑うしかない」との声が掲載されていた。
ありえん。
「祈るようにして撮れ」と自分に言い聞かせて、ここまで来た。
使わなかったが、鞄には数珠も入れてきた。
ここで命を落とした方々がいて、その人達の生活の片鱗が微かに今もある。
これからはコンクリートの堤防のみならず、頑丈な樹木を並べて植えるような根元対策も必要ではないか。
使い物になるかどうかは別として、オフィス機器や備品の類は、形がある程度保たれていれば、固めて安置してくれている。
泥と海水で恐らくダメだろうと思うが、心遣いにホロッとした。
「たろう観光ホテル」
大きな庭石みたいなやつはしっかり残っていた。
不意の崩落や落下物が怖いので、これ以上は近づけない。
ヘルメットは標準装備だったなと反省。
ちなみに、
★Link たろう観光ホテルHP
http://taroukankohotel.com/index.html
(><)まってくれ。おれはパラレルワールドに来てしまったのか??
ウェブの世界と現実世界とは、upや更新を介さないと、乖離していくパラレル性がある。
その混乱が妙な感じで、HPを見ると「あれ、もしかしてまだ普通に営業してるやんか」と、普通に思ってしまう。「東日本大震災の影響について」「重大なお知らせ」などが付記されていなければ尚更だ。
惨状、現状を誰かがウェブの世界の側にも上げなければ、まるで平然と無事であるかのように感じてしまう。当たり前だが、不思議な感覚だ。
裏から見たら割としっかりしてるかもと思った私が甘かった。
逆側(海側)のえぐられ方が凄い。どう対策を立てろと。
1階・2階が消滅しているとは、
探索は終了しているから、まず大丈夫とは思うが、万が一、遺体を見てしまったら、それこそ自分の中で整理が付かなくなるので、あまり深入りはしていない。物件、車は外からちらっと見て通り過ぎるにとどめている。
施設名不明。もしかしたらこれが「市立田老保育所」かもしれない。
反政府軍の爆撃のようなことをやりおる。
ひどい。
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田老町についてはここで切り上げ、南下を続けた。
途中の崎山あたりで、海岸へ向かう道あり。国民休暇村陸中宮古もあったが、目を引いたのは「崎山の潮吹穴」という珍奇な観光スポットである。
私は本来は、B級スポットに目がなく、珍奇なものを愛する性質がある。
被災地に来てシリアスな状況に真正面から向き合っていて、早くも疲れは否めなかった。
ぜひ行って見ようと試みる。
が、
「危険のため立ち入り禁止」
( >_<)おいー。
なんやねん。
すると地元の釣り客のおっちゃん「別に大丈夫ですよ。柵の中で見てるだけなら大丈夫」
さすが!
これまでの光景が信じられないぐらい「普通の」「観光地」の表情が。
おお・・・
「いつもの」感じだ。
よく見ると、不自然な倒木や地表の乱れがあり、どうやらここでも津波が押し寄せたらしいことが分かった。
しかし人工物がほとんど無いため、その悲惨さはなく、多少の乱れに過ぎない。
この凪は悠久のものであるかのように、静かに時間が流れていた。
大津波など、信じられないほどの穏やかさ。
ちなみにこの「潮吹穴」、全国に似たようなものが海岸沿いにあるが、「潮吹穴」と名称が付いているのは岩手県宮古市秋ヶ崎だけだという。
また、「潮吹」とは、ある程度定期的に噴き上がる温泉の「間欠泉」とは異なるメカニズムで、潮の満ち引き、風や波の強さなど様々な条件が揃ったときに偶然見られるものである。そのため、吹かないことの方が多く、地元でも「ホラ吹き穴」と呼ばれている等が立て看板で解説されていた。
だいぶほっこりした。
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現実の戦いに戻って、宮古市内は閉伊川を挟んで、先日訪れた宮古港と逆側、地名では藤原の周辺を歩いてみた。
町が寂れているのではなく、やはり津波被害。
それでもここまで綺麗に掃除したのは、すごいことだ。
一見、かなり無事であったように見える。
だが、津波当日は1階が完全に浸かったという。
ここに住む老婦人と話した。
「今はもうねえ落ち着いたけど、一階は全部浸かっちゃって、波は引いたけども、中はぐちゃぐちゃだしねえ」「どうしようもないからちょっとずつ整理して、やっとここまできましたわ」「まあ、まだ家が残ってるから贅沢言えんのだけど」「大変だったのよ、一人で運び出して」
空き地の手前には、そうして各家庭で片付けた家財道具の廃棄分が山のように積み上がっていた。ご近所さんの男性がいたため撮ってはいない。どの家も、一見無事のようで、しっかりと浸水しているから、被害は地味に大きかった様子だ。
すぐ傍に続くコンクリート堤防。
3m程度か?
津波自体がこの藤原地区一帯は小さかったのかも知れない。
右手は市立藤原保育所であろう。
公的機関が破損、壊滅した場合の修復にかかる税金の投入、徴収が今後どうなるのか興味深い。
国からカネを出してもらうしかないような気もするが。
或いは長期・低金利の借り入れや地方債。
連絡事項はアナログが最強。
いかにTwitterが便利だとワーワー言われても、あの状況下で一番盛り上がっていたのは、被災外の国民であって、電話もTVも衣食住も不自由していない層が最もメディアに呼応あるいは反発する形で連投していた面があったと体感的に感じる。無数の「拡散希望」の中ではこうした最ローカル情報は押し流されて消えてしまう。情報津波による3次災害だと思う。
宮古湾沿いに国道45号線を走る。
警察署や高校など、ずっと町が続くが重度の被害を被っている。
自衛隊や地元住民の活動があったため、自粛して通過。
しかし町が一度途切れる南端に来て、一旦車を停めて降りてみる。
「宮古湾温泉マース」(MARS)が宮古湾沿岸部の端にあたるようだ。
いわて花巻空港で広告を見たから、名前は知っていた。
すぐ裏が海だけれどもひどい。
マースのHPでは、復旧の見通しが立たないため営業停止とのこと。
川の名前がGooglemapでもよくわかりませんが、国道45号線とJR山田線が並走する津軽石のあたり。
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更によく分からん場所で降りた。
ここどこですか。
割と大きな橋を渡ってすぐのところで降りたので、「織笠」のあたりではないかと
思います。
確証なし。。
余談ですがJR山田線の駅名にはエスペラント語の愛称が付けられています。
奥の高架は国道45号「山田道路」と思われる。
JR織笠駅が近くにあるはずだが、よく判らず。
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少しだけ南下し、「道の駅やまだ」で休憩する。
GWということもあり観光客が多く駐車場は満車、入れ替わり立ち替わりで車が行き交う。
こんなに人がいたのか? と改めて驚く。
近くに「浦の浜海水浴場」「鯨と海の科学館」「船越家族旅行村」といった観光スポットがあったが、どうなっているのか。
青い海が脇に見えたりして、本当はさぞ美しい場所だったのだろうと思います。
★Link 「鯨と海の科学館」HP
http://www.town.yamada.iwate.jp/kujirakan/index2.html
「三陸山田温泉浜の湯」のすぐ近く、
介護老人保健施設シーサイドかろ(霞露)。
見ての通りです。
建物類は怖いので基本的に近付きません。
廃自動車を圧縮中。
空いている土地は撤去したがれき、廃自動車の集積場所として使われている。
道路を走っていると時折、そうしたがれきの小山を見かける。
右側は塀から向こう一帯が廃自動車のプレス場。
左側にもっと行くと「鯨と海の科学館」があるのだが、
一般家屋の2〜3階分ぐらいまでありそうな高さにまで積み上げられた
がれき。
自衛隊が作業中のため、科学館には近寄れなかった。
調べてみると、3階部分まで全て浸水したものの、科学館のシンボル的展示物である
マッコウクジラの骨格標本は無事だったという。
体長17.6mにも及ぶ世界最大級の展示。
無事で何よりでした(・_;)
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南下。
少し山間から降りてきて、またも壊滅した町が。
「両石町」です。
海から半キロぐらいしか離れていないせいか、見た目は山間だが
ずたずた。
割と小規模の町。
約220世帯・約650人が住んでいた。
しかし見渡す限り、現存している家屋が非常に少ない。
典型的なリアス式海岸の町だ。素人目にもよく分かる。
海がすぐ数百m先にあり、背にはすぐ山が迫り、その間に切れ込みのように平地があって、町となっている。
高さ12mもの堤防があったらしいが・・・
次は、釜石市中心街である只越町、大渡町〜港町、嬉石町など、重点的に紹介します。