【diary】H29.1/5(木)~1/11(水)編集の眼差し、ロジック思考、生死
大阪・梅田「の」(について)作品を作っているのか、大阪・梅田「で」(都市について)作品を作っているのかを、しっかり明確にしようキャンペーン実施中。
仮のお題として「HEP FIVE」で自分の発想を振り返ってみる。
はい、ドン。
さあどうかな。
→ 思ったこと
・くじらは魔性・暴威の象徴になりうる(白鯨、ダライアス等)
・マッコウクジラかっこいい
・牙と瞳が素敵
つまり私は「梅田を撮影」しているのではなく、「梅田で(何かを)撮影」していることがわかる。ぐう。
( ゚q ゚ )
○1/5(木)「事実」の定義
職場で取材対応。上司に今まで任せきりになっていたので、モノとカネの流れや事実関係をうまく伝えられない&誤認がぽろぽろある。
そして、新聞スクラップを元に情報管理すると、記事掲載後の「本当の動き」が抜け落ちることに気付く。アチャー。記事は「その瞬間での最新事実」を伝えるが、「その後」については真空化するのであった。
(例)
・掲載記事:「N月M日、○○社が△△億円で□□町の土地を購入する意向を表明」
・その後:「N+1月M+x日、○○社が●●社から▲▲億円で□□町の土地を購入」
「事実」は移ろいゆくものであることがわかる。仮面舞踏会ですよ。
おどろう。
○1/6(金)生と死をわけるもの
「生きているもの」と「死んでいるもの」のちがいが見えてくる。
生きているものは、それ自体が何かを語っている。こちらが干渉しきれない。「そこにいる」感じがする。注意や意識を向けてしまうような、気配・表情のゆらぎがある。
死んでいるものは、完全に受動的である。虫の標本のように、動きはなく、配置されたり、切り貼りをされる/された後である。平面的で、一方方向からの見方しか成立しない。
半年前までの私が手元に集めていたのは後者である。蝶や鳥をたたき殺して、羽を切り取って貼り付けたような平坦さがある。その後、徐々に、生きているダンゴムシやヌマエビ、ヒザラガイなどの生態をとらえるようになってきた。こいつ何を捕食してるんだろうとか、こいつはあと何回か脱皮しそうだとか。比喩であるがそういうことです。
小動物の眼や口元の動きを見ていると実際飽きない。また、思いもよらぬ隙間に営巣していて、それぞれが独自の生活システムを構築している。そういった生態のディテールと似たものを【都市】の片隅に重ねあわせることができ、疑似的な生態系、まさに「自然界」に似た世界を見出すことができる。
というようなことを最近思い付いた。
発展途上な身なので「数か月前に描いた世界観」から上書き変更が激しい。着地点そろそろほしいな。
○1/7(土)【写真表現大学】編集の眼差し、ロジックの再考
作品について簡単に写真集の形に起こし、プレゼンを行う。
私「大阪・梅田のもつ力を引き出して、全国にも伝えたい」
講師「言おうとしていることと作品とが合ってないので、このままでは難しい」
\(^o^)/ ∴そらそうや
自分の言動に大きなズレがあることを確認。酔ってるのか。
何がどこでどうズレるのかを再確認しよう。
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(0)動く[歩く&撮影]
(1)感じる(半ば無意識)
(2)思う(かなり意識的)
(3-1)考える[コンセプト考察](非常に意図的、戦略的=要技術)
(3-2)考える[展開・編集考察] (〃)
(4)伝える[プレゼン、展示、製本](〃)
(5)聴く[評論・批評](戦略的=取捨選択)
→以降、「無視」 or 「チェック&修正」をかまして(0)へ
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さっと書いたが(3)の構造は非常に技術的かつ専門的で、特に現代の「表現」においては最も重要なパートである。
私の場合(3-1)と(3-2)がズレている。原因は、更に細分化された工程への落とし込みが足りないためである。よりシャープなターゲッティングが必要である。
→誰に、何を伝えたいか、期待される効果は
このように、「表現」のジャンルでは「ロジック」や戦略が極めて重視されていることがわかる。表現というと、卓越した技能や、際立った情動が不可欠なものとしてクローズアップされがちであるが、さあ実際はどうだろうかというお話。うふふ。
なぞの高揚感からか、宴をする。
○1/8(日)【写真表現大学】編集の眼差し・続編
作家とは、優れた身体能力と技術を以って、単騎で剣なり槍なりを振り回して戦う、独立遊軍のごときイメージがあった。それは実は間違いで、もっと多角的な性質を備えている。あるときは戦場の大局を見極める軍師の眼を持ち、あるときは必要に応じた規模の兵を率いる将にもなる。ゲリラ兵としての工作も考案する。つまりベンチャーの起業家に近い。
写真作家と言うと、何でもありで、漠然としていて、情緒的な像になってしまうが、ベンチャー企業家と再定義すると全てが説明がつく。作品タイトルはプロジェクト名であり、コンセプトシートは事業概要である。ヒト・モノ・カネ、そして時間と体力をいかに分配して、何を獲りに行くのか、どこへ到達しようとするのか。その問いを重ねる。
作品候補の作成に苦慮している同期に共通しているのは、テーマの芯(プロジェクト名)が決まっていないことと、本当に心惹かれるものの存在が見えていない(自社のメインコンテンツの不在)である。恐らく自身もそうで、遙か彼方の戦場にいる人から見れば、全然あれなので、がんばりましょうというお話。わあい。
仲魔(ますみはん)が、留学に向けた審査作品のプレゼンをする。既存の系譜と何が違うのか、意図は何か、今後何をしたいのかを説明・議論できなければいけない、という話になる。自分の事業を説明できるのは自分しかいないというシンプルな現実がありますよね。けどまあそれは環境によって可変で、3か月もディベート文化に浸かればたぶんバリバリになれる。
夜、DDハウス横の小さな焼き鳥屋で会談をする。鉄板の上は宇宙。
なぜか滅茶苦茶に酔ってたいへんなことになる。
たいへん。上下左右がない。だめだ。
○1/9(月)スイッチオフ
酔いすぎや。夜と朝が入り乱れる。水でうすめる(飲まないと足が攣る)ので、夜通しものすごい頻尿になり、全然眠れない。終日眠る。ぱたん。
成人の日だ。
○1/10(火)北新地=路上が職場
Google Chromeの拡張機能が多数あることに初めて気付く。中でも「Quick Note」は、Webサイトを見ながら思いついたことをメモするのに便利。
ぴちょんくんの顔色が妙だ。毒素の多いプランクトンでも食べてるのだろうか。
用事は無いんですが「そういえば新地で撮影したことないな」と思い、仕事帰りに寄ってみる。
むりだ \(^o^)/ 撮るとかだめだ。
ここは「職場」だと気づいた。我々が通常、オフィス・事務室内で交わすやりとりが、そのまま路上にある。微妙な気遣いが瞬間瞬間に交錯している。何気なく立っている人、通過する人、車、店に入ろうとする人、そのほぼ全てが顔見知りで、上下関係がはっきりと浮かび上がる。つまり余所の会社のオフィス内と大差がない。
しかし昔の井戸の名残があったりして面白かったりする。時間を変えて訪れてみるといいよ、と天使がささやきます。はい。
堂島アバンザのジュンク堂2階、ここは写真集コーナーが秀逸で、赤々舎のよい写真集などの見本が豊富にある。中身を確認して吟味できるのは大変ありがたい。現在の作家さんで好きな人というのがいまいちいないのだが、いないいないでは寂しく、写真が座学化するとよろしくないので、もっと親近感をもちたい。
ぬらぬらしてるのは良いなあ。生きていてほしい。
1/11(水)デザイン、デザイン、それ、なんだ
デザインとは、色や形でセンスよく何かを表わすもの、という観念がありますが、今やその域をはるかに超えています。ということを何故か急に再認識する。(いつも発想が唐突なので、日常生活を送りながら旅人の気分です。困った。)
我々の生活を変え、社会と人との関わり方を変えたり、社会そのものへ変化ももたらす取組が「デザイン」です。
そのあたりは実は、経済産業省がしっかりと検討していて、「デザイン政策ハンドブック2016」に定義が明記されている。官僚組織がアートやデザインを戦略的に用いて、社会にどう活かそうかあれこれ策を練っている時代ですから、庶民個々人にできることは何だろうかと胸に手を当てて考えましょうの会。
特異なイノヴェーターが一人で世の中を変える時代は終わっていて、各種分野の専門家が集まって「集合知」により新しい社会を創る時代。って偉い人が書いてた。そうよね~。
いいながら職場で寝てますけど。ああん。過眠ひどい。カフェイン、私を
たすけて。