nekoSLASH_記録編(日常・登山)

『nekoSLASH』分家。日常、登山、廃墟、珍スポットの記録集。

【都市】2017.11/8「11/10は無電柱化の日」@北新地 みちまちスクエア

【都市】「11/10は無電柱化の日」@北新地 みちまちスクエア

仕事終わりにいつものように梅田を徘徊していたのです。そう、雨は止んでいて、兎我野町のラブホテル街をふらふらと歩いていました。ホテル前に車が並んで、ドライバーがスマホをしながら誰かを待っています。出張系の嬢の送り迎えですかね。皆働いている。ふらふら歩きました。私に意思があるかというと8割ぐらい無くてですね、むしろ私は都市の一部であって、無作為に作り出されたパーツの一部なんではないか、そういうことを言うと大体みんな「そうやね」と遠い目で頷いてくれます。そうなんだよ。

JR北新地へたどり着いたら、イベントスペース(みちまちスクエア)に妙な展示がある。

「11月10日は無電柱化の日です」 

 

( ´ - ` ) ?何です?

 

 

ここは普段、各地のご当地パンフレットが並び、北海道から沖縄まで全国津々浦々の、なかなかマイナーな地元案内の小冊子が大量に陳列される一角です。旅情をみだりに駆り立てる場所ですが、今日は妙にストイックな内容。

 

はあ電柱を無くすんですか。

 

 

( ´ - ` ) ? 無くすんですか。

 

 

( ´ - ` ) 無くすんですか?

 

 

 

( ´ - ` ) ちょっと待ってや

 

 

 

ああ、それはね。

災害時に困るのはわかる。そうだよね。生きた電線が垂れたり、ぐらついた電信柱が残されると非常に危ない。撤去されるまで緊急車両が通れない。これはよく分かる。全国の電柱・電線が一気に耐用年数を超過する時代になったら目も当てられませんね。

 

 

( ´ - ` )

 

 

( ´ - ` ) ? なにいうとん。

 

 

 

( ´ - ` ) 美しい景観。

 

 

 

( ´ - ` )ノ 美しい景観(怒)。

 

 

でたよ「美しさ」。この情緒的マニフェスト

 

 

「美しい景観」という概念には相当に異議があります。そら、上高地立山アルペンルートや飛騨の合掌造りで電柱立てたらだめですよ。みんな悲しみます。芦屋の高級住宅街なども厳しいですね。

しかし「ひしめく電線」の挿絵写真、これは正解なのでは???

 

あるべきところにあるのは別に「美しさ」を損なわないのでは。

 

電柱・電線のない光景がなぜ「美しい」と評価されて、電柱・電線がひしめく光景がなぜ「美し」くないと評価されるのか。ましてや、日本に来た「外国人」に(美しくないと)気づかれる、などと、なぜ外部の評価で語るのか。これは滅茶苦茶。

外国人が日本に求めているのは、電柱や電線のない、青空の見える都市景観なのか?誰かに話を聞いたんですかね。根拠はよくわかりません。まさか明治期以来の西欧コンプレックスをまだ引き摺ってるんですか。日本には芸者と忍者はいなくてですね、アニメとコンビニと自販機と電柱・電線がありますえって言わはったらよろしおすやん。

 

 

「基本理念」の3項「地域住民が誇りと愛着を持つことのできる地域社会の形成に貢献」が気持ち悪いので必見です。「誇りと愛着」がなぜ無電柱化の理念となるのかわかりません。今まで無かったところに無秩序に生やすのは良くないが、これまで無秩序に繁茂してきたものを美しくないと言って否定するのはどうなのか。人の顔の整形にはうるさいくせに。それに美醜という感性的評価に抱き合わせで「国民の理解と関心を深め」などと繰り返されるのがまた奇妙です。まだ明治時代なんですかね。

 

むしろサブカルチャーの分野;アニメやゲームにおいては、よりリアルな日常系を追求する中で、電柱・電線など、都市インフラのディテールを写真トレース的にしっかり書き込むことで、従来にはなかったリアリティのある風景映像論を展開している。私たち都市生活者の原風景として、電柱・電線はすでに、記憶の深層にしっかりと息づいているのではないか?

 

 

以下の作品は、横浜トリエンナーレ2017(横浜市美術館)における、オタクカルチャーを扱うアーティスト「ミスター」の展示光景。村上隆の下で学んできた氏は、「萌え」や「制服」といったオタカルの記号的要素とともに電線・電柱の写真を併置し、その界隈で好まれているノスタルジックな(エモい)光景を再現する。

 

かつて中学・高校の頃の下校時に見た(かもしれない)、幻のような青春の一時(実際幻かもしれない)を、永遠に反復させる強力な装置として、電柱・電線は機能していることが示される。

なぜアニメやゲームの世界で電柱・電線がわざわざ書き込まれるのだろうか。EVAにせよ「君の名は」にせよ「龍が如く」にせよ、電線のたわみ、軋み、重なり、電柱の並びを真正面から描いた作品には、並みならぬ感情移入を催させられる。

プロカメラマンの世界では逆に、それらはphotoshopの各種ツールによって丹念に修正・削除される邪魔者であったはずだ。商品としての「美しい」完成度を期待される画にとっては邪魔物であっても、私たちの心象にあっては、これらの人工的な猥雑物は、今更あがいたところで拭い去れぬほど親しい存在となっているのではないだろうか。

 

 

防災上の理由はよくわかる。

しかし「美しい」景観、地域、国、などという論になると、「それは誰にとっての美しさですか?」と反抗せずにはおれない。何を綺麗事を言っているのだ、おまえも私も都市の一部ではないか・・・今更自分を否定するのか? おまえは金村修の写真を見たことはあるか?あれはいいぞ・・・私たちが何処から来たか、何から出来ているかが、よく分かる・・・。

 

無電柱化の動きも、もしかすると都市という巨大な生体が、次のステージへ大きな変貌を遂げようとしているだけかもしれません。もっとツルッとした、突起物を極限まで減らしたフォルムとなって、

まあ都市がそういう意思を持つなら仕方がない。

 

 

しかし、

 

 

(*゚ー゚)

 

 

(*゚ー゚)

 

 

(*゚ー゚)v

 

 

電柱好きなんで勘弁してください。

 

 

 

完。