【登山】H30.4月末 佐々里峠~大芦生杉群落@小野村割岳ルート(対・H22年比較)
正直に言おう。偶然辿り着いたので、もうルートは覚えていない。
京都の奥深く出眠る巨大な「芦生杉」(あしうすぎ)だ。それは縄文土器の姿をしている、とても大きな樹。約8年ぶりの邂逅となった。おひさしぶりです先輩。
ルートは、「佐々里峠」の「石室」駐車スペースに車を停めて、「小野村割岳」へ向かう。が、その稜線上で日本海側の杉群落へと分け入る必要がある。
※(追記)地図上のメモは間違っているので、くれぐれもこれをアテにして探索しないでください。迷子になります。
そもそもカミナリ杉の正しい位置が分からない。行くときはおとなしくネイチャーガイドに申し込むのが吉です。(※私はガイド経験者と共に入山しました)
そもそもここはどこだろうか。京都市左京区の果て、広河原尾花です。京都市内唯一のスキー場「広河原スキー場」が目印。京都市内と言いながら、ほぼ南丹市に位置しており、周囲を山に囲まれた秘境です。
ルート難易度は、道のあるところを歩くだけならゼロに等しく、ハイキングコース化する。11時すぎの出発でOK。ただし目当ての巨大杉を自力で探そうと思うと入念な下調べが必要、特に目印がないので難易度は相当高い。ノーヒントではまず見つけられない。
11:10 ノボルヨー。
ブナがきれいだとか最近どうよとか職場のあの人がどうのとか言いながら歩いていたら良いです。浄化されます。人生には寄り道が必要です。ブナは綺麗でした。
ブナかな。ブナだと思いますね。
もう分からんですよ。きれいでしたなあ。
道ですが、勾配はあるけど無視できます。自分磨きだと思って歩いていたらいいと思います。磨かれた実感はないですが。下山後に体重が1.5㎏落ちたのは、杉を探すのに相当な探索をしたからだと思います。ぜー。
だいたいこういう感じの、山道というかハイキング道を歩きます。自分磨きだと思って歩きましょう。磨かれた実感はありませんが。
道は明瞭です。人生に詰みそうになったらこういう優しめの山に来ると良いですよ。「道はあるんだ」と思えますね。宗教ですね。ええ。本当に詰んだら山に行くどころじゃありませんからね。詰む手前に来ましょう。宗教ですね。ええ。
倒木が多い山です。地味な山ですが表情は豊かです。志半ばで斃れた友、ライバル、先達の姿などを投影しながら歩を進めましょう。押切蓮介「狭い世界のアイデンティティー」でくすぶり加減をこじらせておくとより効果的です。胸に手を当てます。人生とは、生き残った者が語る後付けの物語にすぎない。そうです。途中で去ったり斃れた者は、語られることはあれど語ることはありません。何を言っているんだ君は。はい。
こういう広場に出ますが、2回あります。ひっかけ問題だ。
1回目は佐々里峠スタートから3~40分で、2回目は小一時間後、「カミナリ杉」を通過して以降に現れます。2回目の広場の方が、周囲の樹木の大きさやひねり・ねじれが激しいです。
我々は8年前の記憶から「広場の周辺から巨大杉にアプローチできたはず」と踏んでいたため、1回目の広場で探索に出てしまい、直感だけで斜面を駆け回ったため、たいへんでした。残念いくら探してもそこには何もないんだ! 山で直感は何の足しにもならないことが分かりました。ひいい。
ひたすら小野村割岳へ向かう稜線を歩くと、倒木あり、倒木あり、落雷に打たれた木があり、落雷に打たれた木2、などがあります。
広場に出て、2本目の落雷に打たれた巨木:カミナリ杉が重要です。そこには札がかけてあり、唯一の目印になります。なる、はずが、往路では何故か全く気づきませんでした。ええっ。どうやって行ったん。
「カミナリ杉」。なぜか往路では出くわしておらず、写真は復路のものです。もしかしてルート逸れて歩いてたかな。だめだ。
往路側から見たカミナリ杉。落雷で腹をえぐられていますが、生きています。
なお8年前にはこの杉をちゃんと撮影して通過していました。まじか。おぼえてないねんけど。記憶は本当にあてにならない。自分で登った山ですら記憶めちゃくちゃです。刑事に尋問されたら一般民間人は終わりですね。
内部が空洞です。どうなってるんだ。
更に進むと周囲におかしな形状の杉がボコボコ出現します。どう考えても普通の森じゃない。そのあたりが(どこだよ)大芦生杉群落です。それはもう雰囲気でお察しくださいという域。
周囲で最もまがまがしい妖気を発していた杉。帰路でもこいつの表情はよく分かったし、8年前にも撮っていました。存在感は抜群。この子だけでも十分撮影相手になります。仮面で表情を覆っているような不気味さが魅力です。
ここから少し東に行ったあたりから脇へ入っていくと、目当ての杉の群落です。
どこだよ。
現場に情報がなく、私が一人で再び行ったとしても、辿り着くことは難しいでしょう。ただただ元・ガイドの知識と経験でカバーしてもらいます。地形に特徴が無さすぎる。低山の最もイヤなところです。逆に槍ヶ岳などのスター級の山岳のほうが、分かりやすくて登るのが楽です。
どこだよ。
意外に歩きます。遠いな。「こんなもん分かるか」と早々に記録を投げ出しました。ただの山の斜面です。同じような光景がそこいらじゅうに…
8年前の記憶では「広場から右手に逸れて、森の中に少々分け入ったら、すぐ巨大杉が出てきた」。どこがだ。めっちゃ歩いてんぞ。人の記憶は改竄され続けることが分かりました。なぜそうなるのかは不明です。何のメリットもないのに・・・
13:04
筋骨隆々とした杉がいました。これも名の知れた杉のはずです。昼過ぎで日光の当たりが激しい。
現場でけっこう撮ったつもりが、今見返してみると写真が断片的すぎて、ルートが全然分かりません。何かを諦めたんだと思います。
13:11
どこだよ。
13:14
感動のご対面。探し求めていた、縄文土器(火焔土器)様の芦生杉。「森の神」と称されているようです。しかしここでも、「記憶の改竄」問題が生じます。
「これ、前に見たやつかな」「いやどうだろ、こんなもんじゃなかった気がする(※8年前これで感動しました)」「もっとデカいのあったっけかな」「あると思う。これの後にもっとすごいの出てきて感動した記憶がある(※8年前これで感動しました)」 もう無茶苦茶です。
神を前にして、写真撮ってほなさよならというのはあまりにアレなので、ご飯をたべます。食べましょう。
( ´ - ` ) いただきます。
( ´ - ` ) 何かの汁。
食べ過ぎ ウェー。
「森の神」撮影会です。食事のついでの感があります。ごめんよ。
樹高約35mと言われています。魔神でも召喚したようなフォルムがすばらしいですね。都市の造形物ばかり追っていた2年間でしたが、改めて自然に帰ってくると、人為の及ばない世界は圧倒的です。人間を無視しているところが魅力です。
人間を無視しているなあ。いいなあ。
自然界は徹底的に私たちを無視する。登山を7~8年やってきて、そういう実感を積み重ねてきました。そのせいか、人為的なコントロールで生み出される「美」は、実に面白くないです。貧困だ。芦生杉にそないなこと訴えても仕方ありませんが、聴いてくれ杉よ、あいつらがおれは大嫌いなんだ、一緒に人類を滅ぼそうよ、的なことを囁きます。知らんと言われました。あうあう。
ちなみに8年前の写真がこれ。
当時、非常に深く感動していたことを思い出します。この写真にしても高揚感があります。
そう思うと今の私はめちゃくちゃフラットです。怖いぐらい平然としています。加齢に伴う感情の平坦化でしょうか。興味の対象が変化したのでしょうか。
帰ります。
14:48 帰る。
往路で見ていないと思わしき巨大杉が出現。じゃあ往路どうやって行ったんだ? 全然よくわかりません。軽い道迷いです。この杉も番人みたいでかっこいい。心のRPGですね。きみのアルテマを解き放て。ズガー。
仲間が樹に喰われる等がありましたが、みな無事に帰還しました。よかったですね。
巨大杉から稜線上へ至る道を、写真で記録したはずですが、今それらを見返してみても全然よく分かりません。
森の聖域を侵すものは記憶や画像データを奪われるのかもしれませんね。実際なぜかJPEGデータがごっそり欠けているところがあり、RAWからわざわざ書き起こしたりしました。怖いな。
15:26 スタート地点までもうちょい。
15:55、スタート地点の佐々里峠に帰還です。お疲れ様でした。
人の記憶は全くあてにならんことを思い知った山行です。気が重い。何を信じればよいのだろう。
帰りは「鞍馬温泉」の露天風呂(大人1,000円)にて汗を流し身を清めました。外国人だらけでした。エロかった。
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■おまけ【視座の比較】
さてここで、8年前(H22)と見えているものを比較してみましょう。
私はH28年度に写真の学校(写真表現大学)に入り、以来、作家修行として写真集を読み込むなどしてきました。それ以前は、美術館にはよく行っていたものの、写真は我流、写真集を読んだ経験はほぼゼロです。
よって、この間に何か視覚上の変化が生じているか、比較検証することができます。全く同じルートなので、目にする光景は基本的には同じはずです。それに装備も、前回はEOS 5D Mark2、今回Mark3、装着レンズは24-70㎜で共通。ほぼ同条件です。
◆前回(H22.11月)
なるほどですね。
◆今回(H30.4月末)
なるほどですね。
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もう明らかに、自分の打ち立てた作家活動のテーマの眼(=非生物に、疑似生命感を見い出して増幅させる)で、山を探索していることが分かりました。
言葉では説明が難しい、木々のモノとしての奇怪な形状、重量感への関心。ばらばらと拡散していきそうでありながら、個体としてカチッと統御された姿を見ています。
特に、樹としての活動を終えて、枯れたり浮き上がったりして、オブジェ化した姿に対して、強く惹かれています。生命ではないが、生命と見なせるもの。それを何と呼べば良いでしょうか。これらはこちら側のコントロールを超えています。
こうした、「樹」「植物」「森」といったラベリングでは対応ができないもの、定義が漏れ出して揺らぎ続けるものについて、強く魅了されていることが分かります。
8年前の写真を見ると、そういった関心は確かにベースにはあるものの、まだ形には押し出されていません。狙いが明確でないので、オールオーバーに潰れている印象があります。
むしろ、撮って絵になる定番の構図(コケやキノコの写真)に強く引っ張られていて、どっちつかずの印象です。デジャヴ感がある。「よくある写真」の域を出ない。
つまりこの2~3年の間に起きた変化は、①自分の関心事をクリアにした、②自分の中の映像アーカイブを拡張させた、ということかと考えられます。
それによって被写体やフレーミングについて、取捨選択の幅を拡大させつつも、方向性に一貫性を持たせることが可能になった。
また、自分ではコントロールできない対象を好んで相手にしていることも重要な変化です。良かったですね。
図書館で写真集を読んだり、写真についてblogを書き続けてきた効果が、山で活かせるようになるのは面白いことです。誰も得はしませんが、少なくとも山は悦ぶんじゃないかと思っています。どうかな、
( ´ - ` ) 完。