飛騨金山の「筋骨(きんこつ)」を巡りますよ。
毛細血管のように、街に張り巡らされた、暮らしの小路。
「筋骨」とは、町=体に筋(すじ)や骨のように絡まり合った細い路地のこと。歴史的な生活道で、なんと公道なのだが、高山など他の地域ではもう無くなっており、飛騨金山にのみ残っているという。
せっかくの異郷ですから、今回は金山町観光案内所の「筋骨ガイド」さんに案内してもらった。
1~6名で2千円。むちゃくちゃ安い。
4人パーティーだと一人500円。子供のこづかいでも利用可であるから、利用しないとめちゃくちゃ損です。得をしましょう。
なんせ町中に筋骨が大量にあり、素人でもわかる筋骨と、素人ではわからん筋骨が混在しているので、素直にガイドの力を借りるのが吉です。狭い筋骨は本当に生活用の私道にしか見えなくて、人の家の一部と化しているので、ガイドの手引きがないと深入りしづらい。
街のようすは、こう(JR飛騨金山駅から南)
ほぼ赤いルートの通りに案内してもらった、つまりこの地図がそのままガイドツアーなのだ。
そんならガイドいらんやんと言うだろう。
しかしガイドツアー、歴史と地形の「語り」による案内は、文字を読んで得られる情報体験とは全く異なるものだった。
歩いて、見て、そこに話し言葉が掛け合わさって得られる情報は、全く別の世界を立ち上げていた。日頃X(Twitter)と書籍の文字情報で満たされてあくせくと生きてきたのは一体何だったのか。私はXに塗れた日々を恥じた。そして(Xで台風情報を漁っている(なう🙃⚡
1.集合:ドライブイン飛山(ひざん)
国道256号沿い、生きているか死んでいるかよくわからないドライブイン敷地でガイドさんと集合です。ゲンキーとパチンコ「ひざんホール」の間に「飛凸」もとい「ドライブイン飛山」がある。
こっちは死んでる方。周囲に飲食店や土産物屋があるが半分ぐらい死んでいる。駐車場がフリースペース化していて良いんですけど。なおパチンコ「ひざんホール」は生きているようなので誰か出玉確認お願いします。
飛凸。モダニズム建築めいているが刀匠もとい築匠は不明。トイレを借りました。定食などもあるよ。
「筋骨めぐり」がメジャーな観光資源として出回っていて、トートバッグまである。まじですか。関西にいると知る人すらいないレアな珍味なのに。なんなら「飛騨金山」という地名すら知らなかった。
新聞記事。いやー知らなかった。飛騨高山とは車で1時間半も南に離れており、同じ「飛騨」でも観光の目的地になりにくい。有名な「下呂」温泉街からも車で30分。盲点エリアである。
語感が強い。土地勘のない人間の目には、地元の「足腰を鍛えようぜウォーキング企画」にしか見えない。いいぞいいぞ(無責任に称賛)
ここでガイド氏と合流し、地図などチラシをもらったが、中に「金山巨石群」のチラシも入っていた。へえー巨石群のほうも観光協会はガイドやってはるんですね。我々も今回の旅程に入れてはいたのだが、ここから車で片道30分はかかり、時間の都合でカットしたのだ。
単に、太陽が神々しく射すだけの巨石群だと思っていたが、甘かった。
ガイドさんがイントロダクションの説明してくれたのだが、聴いていたらちょっとわけが分からなくなってきた。
5千年前の縄文人がどこからか移動させてきた巨石群が3か所あり、それぞれが太陽の角度の変化を利用した季節の観測装置となっていて、春分・秋分、夏至、冬至の日を30日前後、60日前後で観測したり、うるう年を観測したり、北極星の位置を観察したり(当時は現在のポラリスとは異なる星・トゥバンを見ていた可能性あり)して、
またそれぞれの観測が細かくてですね、イラストに記されているだけでも巨石が10個はあり、どの石のどこの隙間・穴に何時に太陽が差し込んだら夏至だとか春分だとか、何が何やら言葉で聞いていたら発狂しそうになった。数式ちぎって作りすぎてわけわからん表になってるExcelシート計算表みたいなあれです。一つにまとめてくれない縄文人。バラバラのまま総合的に理解してたんなら現代人より縄文人の方が遥かに賢いのかもしれん。こわ。
でこの岩は、日本にも太陽暦があったことの証拠そのものであって、世界史に響く施設ということになるので、たいへんな存在価値がある… というわけで、パワースポットどころの話ではなかったらしいのだ(伝聞推定)。数学苦手なんすよ。次回は現地で岩をひとつずつ見ながら説明を聴きたい。
( ◜◡゜)っ
2.筋骨めぐり開始:サルスベリ、郵便局裏、元・劇場など
ここから筋骨です。マジでいうてんすか🙄(※喜んでいます)
いきなり素朴にエッジの尖った道がきました。道というか隙間というか。
平成15年までは国有地・国道だったが、国もこまかいもんまで面倒見きれないので下呂市に譲渡し、市の公道という位置付けになったという。いわゆる「赤線」(法定外公共物の生活道)。
車道に面した表側で商売をやり、裏側は生活道として入り組んでいる。ただの裏道ではなく、もう一つの「表」というか、車道側は商店街のしつらえ、筋骨側は住居としての機能性を有している感じ。
公道…?(※喜んでゐます)
こんな入り組んだ道になったのは、かつて国境ざかいに位置し、戦場になると敵が攻めてくる可能性があったため。馬瀬川(まぜがわ)を挟んで飛騨の国と美濃の国に分かれていて、それらを江戸時代には四つの藩(天領、尾張藩、苗木藩、郡上藩)が治めていた。
信長の時代からも4つの国境地帯となっていて、地元民はすごく仲が悪く、争っていた歴史があったと。仲は悪いけれども昭和30年に一つの町になりました。よかったですね。なんか『美味しんぼ』でも湖の東西で仲の悪い村が出てきて、結局チャーシューメンで解決してた記憶がある。あれ、なんで対立してたかがよく分からないけど根深かったのだが、今思うと現役世代には見えないこうした歴史的な対立感情が末代までとりあえず根深く尾を引いていて、昭和~平成初期にはそういう地理的歴史的な感情対立がまだ日本中あちこちに普通に見られたのかもしれない。美味しんぼの話をするなという声がする すいません
この明り取りの窓が特徴的なんですね。なんでしょう。
かつての劇場の楽屋の面影で、コンクリートの上には劇場が乗っていたという。
この町は宿場町として栄え、主に尾張から飛騨に向かう物流の拠点として潤っていた。(逆方向は、木材を飛騨川から流して下ろすため、宿が要らない) が、国鉄の飛騨高山駅が1928年に開業すると、宿場はなくなり通過点となってしまう。
町で力を合わせて商売のあり方を転換する、その解決法が「歓楽街」で、「株式会社金山劇場」を作り、パチンコ、スマートボール、ビリヤード、キャバレー「夢の国」を作った。宿場町の時よりも客が来て、更に「岩屋ダム」建設時には作業員ら3千人が町に滞在し、非常に栄えたという。昭和40年代は夜空が明かりで真っ赤になるような盛り上がりを見せていたのだとか。
しかしダム建設が終われば(1974年完成)人もいなくなり、特需は終わる。町はそのことを見据えていたため、歓楽街は省エネを心掛け、建築物は小規模にとどめるが内装を見栄え良くする、商売がだめになればシャッターを下ろしてしまえばよい、といった、依存しすぎない塩梅でやってきた。結果、おそらくは大きな失敗はしなかったのだろうが、されど現在、非常に寂しい町になっているのも確かであある。
古い写真を見せてくれたが、劇場の外観は完全にお寺であった。廃棄する予定の寺を譲り受けて移築し、中だけキャバレー仕様に改装したという。徹底している。
飛騨金山の町、もとい筋骨タウンは、省エネ経済の町なのだった。
背が低い木。去年切られたキンモクセイ。何気ないところで解説が始まる。あると思ってもいないところに物語がある。これがガイドツアーの面白さだ。
キンモクセイ、かつては重宝されたらしい。なぜか。
キンモクセイが花咲き、香りが強まる時期こそ、松茸が発生する時期だという。調べてみると日本全国で言われていることで、ここ飛騨でも同じく、松茸センサーとしてキンモクセイが植えられていた。町民らはキンモクセイが香ると山に松茸狩りに出向き、1シーズンで1年分の稼ぎを叩き出した。
しかし平成に入ると酸性雨で赤松が枯れて松茸は減少し、キンモクセイも役目を終えたのだった。おい人新世ろくでもねえな反省しろ。
シュリンクし続ける現在の町、というしんみりする話が続くが、実際には次々に謎の路地が展開されるのでテンションが高い。アンビバレンツな私達。おほほ。どこを歩いているか分からないが楽しいぞ。目的がない、という状態を目的としているメタな遊び、それが成立しているのだから楽しい。アンビバレンツな私達2。おほほ。
楽しいですね。たのしいんや。瀬戸内国際芸術祭の離島の小路を、もっと高低差なく、横に展開を広げた感じ。地形の変化がないので、ある意味まったりしているが、単調には感じない。家が大きくて多いから筋骨迷路の規模も大きく、町の全体像が掴めなくて、探検味がある。路地でしか得られない滋養があります。
3.劇場通り~井戸~火事で焼けた跡地
かつての劇場が面していた「劇場通り」は上村電機店ぐらいしか生きている感じがなくて(向かいの黒豆大福の店「もちこう」が閉まっていたせいもある)、皆さん、普通の家というか。ま(表をウロウロしている人もいなくて、我々ぐらいですかね。まあ暑いし。まだ真夏ですからね(過疎を認めない人)
郵便局が見える。あの裏手を通ってきたわけ。車で回ってたら一生「筋骨」の存在はわかんないなこれは。
人の集まる大きな通り側を店にして、町民で間口のスペースを分け合い、生活に必要な風呂やトイレは奥にやり、裏の「筋骨」で生活動線をしっかり確保する。
更に、家は4軒1セットで、1枚の屋根・1本の梁を使って建てられていたという。安上がりで、4軒建てても2軒分未満ぐらいの費用で建てられる、非常に合理的だ。
家自体は個人所有なので、建て替えるのは自由。だが、何せセットでくっ付いているので、最初に建て替える家は、両隣の壁2枚分を残したまま自分の家の壁を作る決まりになっていて、つまり壁2枚分の間口を損することになる。
ここまで徹底していて、町民の並みならぬ結束がないとできないことで、まさに運命共同体。そうしてでないと防衛や経済の点からも生き残れなかったということだ。
「4軒」というのは「5軒は3対2になるとすごく揉める」「4軒だと2対2になれば話し合い、1対3になれば諦めるという構図ができて、仲良くやっていける」と、巧妙な統治の技術が織り込まれている。
集落、人間の暮らしの集まりが生存のために編み出した統治法を目の当たりにすると、『逃げ若』みたいな歴史漫画で描かれる昔の人々の暮らし、ムラ、部落集落の在り様がいっそう現実のものとして肉を帯びてくる。おもしろ😶
「ムラ社会」は一方的に批判したり自虐する概念だったが、実態はだいぶ話が違う。この先、評価が転ずる面も出てくる気もしてきた。
回覧板がめっちゃ入る箱。なんぼ回すんすか😶
Dive into the Kin-Kotsu!
あれもこれもぜんぶ筋骨。すごいぞ筋骨。これで公道というのがすごい。公と私との境目がわからん。かつての日本の姿というわけか。すごいぞ。これで筋骨でもないただの私有地が混ざってたらこわいな笑。任意で通報で草。でも過疎化とかで町の力、町民の結束や歴史=共有された「公」の力が弱まってくるとそういうことが起きうる。
筋骨が斜めに走っているところに沿って三角の家。表通りから見ると普通の平らな家。
「この町は宮大工が多いので、図面とか引かずにどんどん組み立てていって作れてしまうんですね」
( ´ - ` ) 宮大工とかいう謎の職能集団おそろしすぎませんか。そういう職能人たちがたくさんいたから古代、中世の町は戦乱で焼けたり壊されたりしまくっても次から次に新たに作られ、高度な建築物が現れたんだろうな。どうも現代人とは「人間」のスケールが違うようだ。
暑いですね。イドブレイクしましょう。
井戸ザパー。
出せば出すほど冷たい水が出てきて気持ちよ。地下の水は冷えているさかいに。※飲み水ではない。
昔はもっと川の流れが大きく、一時期は国道からこちらの町側は川の底にあったそうだ。川の姿は消えた今も、地下水として岩盤の上を流れており、町一帯は地下2~3mも掘れば水が出てくるという。
だが馬瀬川・飛騨川の向こう側にあるJR飛騨金山駅の方には昔から今も地下水が流れておらず、駅ができる以前は田んぼもできなくて、繭を育てるぐらいしか産業のない貧しい集落だったそうだ。その力関係を覆すのだがから鉄道など交通インフラはいかに強大だったことか。後に北陸新幹線の理不尽な整備について憤りを交えて議論したのは言うまでもない。あ昨夜の話だったか。忘れた。
商店街にお客さんきたらいいよね、と生暖かい目で見ていたのだが、よくよく見たら「全国のお店に」と書いてある。うおー。何ということだ。地元だけでなく万人の繁盛を願っていたのか。神童だ。金山に宝がおるぞ。
これは武内宿禰が冬眠してる類のカプセルで、たたくとヤマトタケル時代の誰かが当たります。多くは溶けて出てくる。(『暗黒神話』面白いですよ) この球体、川の甌穴(おうけつ)でくるくる回って削られた石で、最大級のものだとか。ご立派です。
私的な表情が豊富な公道でして、ときめきますね。結んでもない関係性が偶然に交錯して疑似的な私的関係を垣間見させるのだ。いや私的な空間ですから。私的とは何か。
軒を連ねる家並みの中で不自然な更地。7年前の火災で5軒の家が焼失した跡だという。経済性とムラの統治に優れた4軒1組式家屋も、火災に遭ってはただただ道連れになるほかなかった。火事になればだいたいまとめて燃えてしまう宿命にある。
問題は続く。家屋が消えた後には広い敷地が残されたが、その上を斜めに走る「筋骨」=公道はそのまま共同の生活道として生きている。
つまり次に何かを建てる際には、この斜めの筋骨を避けて、変な形の建物を建てなければいけない。形状がいびつになるのはまだしも、分割された建物しか建てられないではないか。めちゃくちゃ不便だ。
昔なら筋骨の通り抜け部分を確保して、その上を跨ぐようにして建築物を建てることもできただろう。が、今の時代は役所が建築許可を出さない。そうなると守るものが多すぎて誰も何も建てようとはしない。空虚だけが残る。Oh。
昔から建っている建築物については、当時の法令をクリアしていればそれで良い(現行法に不適合でも経過措置的に免除される)が、次に建て替える時には現行法に沿って建てなければならない。当たり前ちゃ当たり前だが、「筋骨」という旧来から続くルールと現行の建築基準法その他が完全にバッティングするため苦しい。
苦しみながら物件を見ましょう。これ10年後20年後に何棟残っているんだろうか?空き地が増えませんかね。うぐぐ。
一応、火災対策としては道幅をできるだけ広めに取ってあるという。しかし一方で、かつて4つの国の国境に位置しており、敵が攻めてくる恐れのある町だったので、広くて真っ直ぐな道は作れず、できるだけ道を曲げて曲げて町を作ってあるという。人為的な曲げ。まちづくりは奥が深い。
もう一点、道の幅広さは材木の陸路搬送にも備えていたためだという。メインの輸送経路は川で伊勢まで流すのだが、一度に5千本、1万本の取引をするため、材木で川が詰まってしまう。そこで川の混雑を緩和するために、節があったり品質の劣る材木は「おかびき」(陸引き?)、馬で牽引し陸路で山越えしていたという。
4軒1セットの掟により家の屋根は1枚、瓦を使わない平らなトタン板で共用されているが、ここの家は別途建替えたか改築したことで、高さと形状が1軒だけ異なっている。個人の持ち物なので自由度はあるということ。
2階部分、道路に面した部分は2階の高さなのに、奥に行くにつれて収縮して1階より低くなっている。豪雪地帯でもこんなのないぞ。
かつて、屋根が板葺きで作られていた頃は、定期的に板をずらす作業を行う必要があり、作業を少しでも行いやすくするために建物の高さは低めに、かつ傾斜をつけているとか。
鎮守山の階段すぐ傍にある井戸。ただし保健所の検査を受けていないので飲み水ではないと。(あえて受けていないのかな。)
4.鎮守山、両面宿儺の像
『呪術廻戦』ヒットで人気が出ているという両面宿儺の像に会いに行きましょう。理不尽に強い呪いの王ということ以外私も知識がないが、仁徳天皇の時代に実在したかもしれない歴史上の人物、ということで、その名の通り、性格の落差が激しい超人のたぐいとして理解すべきか。
山というてもちょっとした丘ぐらい。周囲が川だった時代にもここは顔を出していたという。
飛騨金山はギフチョウが明治時代に初めて採集された地ですって。駅舎に写真が掛けてあった。今も生息しているが、準絶滅危惧種で数が少ない上に、成虫の活動期間が短く、4月に2週間程度しか姿を現さない。
カンアオイの葉が幼虫の餌。
山頂のお堂。なんと地面に乗っているだけの簡単な構造で、昔は強風で飛ばされていたが、天井裏に巨大な石を仕込み、お堂にも沢山の石仏を入れて重しにしており、この180年間は飛ばなくなったという。災害は物理で解決!物理は最大の防御!
両面宿儺さんです。
想像していたよりツヤッツヤで逆に怖い。表情が全く読めん。
古墳時代に飛騨地方を牛耳っていた支配者で、力のない一般庶民には優しいが、貯えができた人からは強制的に富を奪い取る強盗みたいな人物という極端な二面性を持ち、そして強かったので手が4本の姿で描かれている。
当然、大和朝廷のいうこともきかないので、討伐隊として難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)が派遣されてくる。宿儺も飛騨の入口であるここ金山で待ち構えていたが、なかなか来ないので南の平成(へなり)地区へ自ら下りていくが、平地戦になると単純に軍勢の多い方が有利になるため、宿儺は追い詰められる。
そして3戦続けて負けて打ち首。
負けたので飛騨地方は大和朝廷に税を納めることになるが、山奥のため冷害などで安定して米が収穫できず、米の代わりに労働力を差し出すことになった。そうして京都や奈良へ連れていかれた労働者が「飛騨工」という。これは飛騨の国にのみ認められた特例だったようだ。
ガイドさん説明で面白かったのが、飛騨人は縄文人なので、顔が彫りが深くていかつく特徴的、身長も弥生人より約10㎝高くて大きいので、都では目立つため逃亡が困難なため、重宝されたというくだり。古代「日本人」の種族が地域によって異なっていたのは、当たり前っちゃ当たり前だが、千年以上前の「日本」は現代を基準に考えては捉え損なうものがあるということが分かった。
宿儺のごとき「超人」も、移動と近代化によって均質化の進んだ現代人では捉えられない特異な性質を備えた種族だったのかも?
しかしあえて鬼や格闘家のような風貌ではなく、図形的に抽象化した像に仕上げた発想も面白い。意表を突かれました。運慶快慶仁王像みたいなのが立ってると思ったのだけれど。
宿儺像の手前、左右に建っている石塔は1本は室町時代、もう1本は江戸時代に作り直されたもの。歴史だ。
5.銭湯へ向かう、細い筋骨
筋骨に戻りまして、町の内部へと入り込みます。
シュールな物件で気になるがこれは特に解説なく、まあただ単に足が長いだけの子のよう。
道路に即して筋骨が並走している。筋骨の方が古くからあって、太い道が後からできたのかもしれない。「境界」の文字にときめく。
一般道と筋骨とを乗り継いで、銭湯跡に向かいます。
これぞ筋骨、想像以上に生活に食い込んでいた。道をまたいで天を覆う物件、物件。この建て方が認められるならそこいらの空き地も、筋骨を保護しながら土地の活用が進んで町が新陳代謝できるだろうのに、まあ行政は建築と安全にうるさいのでそういうわけにはいかない。
6.銭湯跡
大正の風呂屋。一度も改装することなく、昭和63年(1988年)に営業終了。そのまま物件が残っているという奇跡の銭湯跡である。今回はガイドツアーに組み込まれる形で入ったが、張り紙をみる限り、予約や許可もいらず、勝手に入って見学できる気がする。
当然、入口は男湯女湯で分かれているが、番台がとても低いため、それぞれ中が覗けてしまう。キャッ。昭和になると番台が高くなりました。そらそうやね。
張り紙が昭和で止まってるんですよ。
昭和63年7・8月のカレンダー。女性は萬田久子。しらないなあ。
日本赤軍! あの重信房子が!2022年に刑期満了で出所! 足立正生もいる! 岡本公三も!テルアビブ銃乱射事件! かつて、日本人は狂猛であった。銭湯より赤軍に盛り上がる者約1名。
木製ロッカー、番台においてあった金具を差し込んで鍵をかける。全部同じ仕様のため一つの鍵で全部の開け閉め可能。
風呂場内へ。
手前の小さな風呂桶みたいなところは掛け湯コーナー。壁の向こうの女湯と共用になっていて、石鹸の手渡しができた。すごいな家族風呂の延長のようだ。
反対側の壁に蛇口、シャワーがあり体を洗うスペース。広角レンズがないんで撮れていない。つまりそれだけコンパクトな銭湯ということですわ。あと人間が5人もいるから写らないようにするのが無理。
湯舟がまためっちゃ小さいんや。座って入れない。立って、中腰で肩まで浸かる。浴室が狭いためでもあるが、わざと座れなくして筋トレみたいな入り方をさせることで、早く湯船から上がらせて回転率を上げる仕組みにしているとのこと。経済的な合理性がある。レトロだエモだと喜んでゐるとローカルに潜む経済性を見落としてしまうわけです。
湯船の底には「本業タイル」、瀬戸の本業焼き(ほんぎょうやき)から生まれた量産型タイルで、しかし日本で初の浴槽用タイル・手作りという貴重な品になっている。手で絵柄を描いているため隣同士で微妙に柄が合わないのも味わい。
昭和63年9月10日・最後の入浴シーンの記録写真。これで中腰になってると思うとシュールだ。
よかった。
結局レトロは良いのだった。なぜ良いのか。現在の生活やインフラが仕上がる前の、洗練される以前の先祖的な姿に触れることに面白さを感じるわけだが、田舎に帰ったような懐かしさだけでなく、現在の各種デザインとはまた異なる方向での洗練をしていて、進化の途上で出現した亜種を見るような、別の新しさや可能性を見てしまうからかもしれない。懐かしさと新しさは時に相反しないというのか。
( ´ - ` )ノ ⇒後編へつづく。まだまだあるよ筋骨めぐり。