nekoSLASH_記録編(日常・登山)

『nekoSLASH』分家。日常、登山、廃墟、珍スポットの記録集。

【diary】R2.3/5(木)~3/8(日)こんなコロナ等で面倒くさい時期なのにだるくて家で寝ていた

【diary】R2.3/5(木)~3/8(日)こんなコロナ等で面倒くさい時期なのにだるくて家で寝ていた

家に居たりしました。イエ派。

道端や野に打ち捨てられたマスクを洗って使ったり転売する輩がいないところを見ると、この国はまだ理性が残っていると見える。だがこうして野に帰ったマスクから、ウイルスが再び都市の片隅や田畑に貯えられてゆくということはないのだろうか。しらない。

 

( ´ η ` ) 地球がウイルスを育んでる。

 

 

◆3/5(木) 

いよいよマスクの転売を規制(禁止)する方針で政府から発表があり、早ければば来週からだ。これまでの「自粛」ではなくなり、罰則(最高で懲役5年または300万円以下の罰金)が課せられる。根拠となっているのが「国民生活緊急安定法」だ。

マスク転売ヤーがいつまでも超高額でオークションサイトにのさばっている現状が心底腹立たしく、朝から呪いの言葉をTwitterに綴っていた。何故なら、社会的責任の一つに「マスク着用」が事実上の義務としてあるからだ。マスコミが地方自治体による新型コロナウイルス感染者の発覚にかかる会見において、お決まりの質問をする。「患者はマスクをしていましたか」「移動中は」「勤務中は」「外したりはしてませんでしたか」。議長。反問権を一つよろしいか。どうやってマスクを買えと仰るのか? 出勤前にドラッグストアに二時間並べと? あなたがたは仰るのか?

 

マスクをすることがエチケット上も、せき・クシャミによる唾液の飛沫を防ぐ上でも意味があることは子供でも知っている。しかしウイルス自体の侵入を予防することは、構造上できない。以前から言われてはきたが、マスクの繊維が織りなす網目は、ウイルスのサイズからすれば易々と通り抜けられる大きさなのだ。この件は3/7(土)に公開された『FRaU』の記事『文系女編集者がわかるまで感染症医に聞いた「マスクが新型コロナ予防にならない」理由』で、ブレスケアの粒を用い、極めて視覚的に分かりやすくダメ押しがなされた。

gendai.ismedia.jp

 

だが民においては、感情が科学に優先する。不安か、安心かが全てであって、「市民の安全・安心」という気持ちがこの社会を動かしている。よってマスコミの取材・報道もまた「市民の」「安心」に資する情報を求めにゆく。ここでは科学は問われない。私達庶民が非科学的な生き物だからだ。その中で転売ヤーは科学的だったのかも知れない。市場の経済原理と売買サイトのルールに則っているだけだと自衛しつつ、民の不安につけ込んで必需品を高値で転売する、その姿勢は、少なくとも不安に駆られて「とりあえず」マスクを求めて右往左往したり、マスクを付けていないことに腹を立てて暴言を吐く民よりは、少々科学的だ。動機は愚かだが。

 

だがこの社会が「マスクを着用していたか否か」で感染に関わるモラルを問うことを優先し、世論の基準の一つにそれがカウントされる限り、転売ヤーの所業は市民生活の生き死にを握るものになる。特に接客業や医療・福祉に携わっている者にとっては。もはや社会の制度にマスクは事実上、食い込んでいる。なのに転売ヤーの活躍のおかげでマスクは手に入らない。なのにマスク着用の責任だけが求められる。これはもう、死活問題である。なぜ転売ヤーに社会的な生死を握られることになるのか(むしろそれが狙いだ)。その動機が、仕入値と売値の差益を極大化させることで手元を潤すためだけという「ビジネス」とやらで、欲しいのはつまり現金である。個人の(もしかすると組織化されているかもしれないが)僅かな収益化のために、不特定多数が多大な手間と時間を使わされ神経を遣わされることは、耐え難いものがある。

この社会のありようを今すぐ変えられず、誰も変えようとしない――マスクを脱ぎ捨てる社会には絶対にならない以上、転売ヤーは規制されなければならない。ようやくその時が来たわけだ。

 

転売ヤーの売買を無効にするための国の取り組みが動き出したことに加え、市場でもゲリラ的な抗戦が繰り広げられていることを知れたのは、私にとって明るい希望だった。特に後者。インターネット上のオークションでは、ある価格を付けるとそれを上回る値を付けないと落札が出来ないが、付けられた希望価格はたとえ無茶な額(マスク3枚セットに対して500万円とか1億円とか)であっても、出品者側からは取り消すことが出来ない。もう一度、出品を取り消して一から登録し直さないといけないらしい。こうしてアホみたいな高額を付けては取引を不成立に追い込んで回る遊撃隊がいるという。素晴らしいことだった。現場の知恵に勝るものはない。

 

交通機関のアナウンスでは時差通勤の呼びかけがなされている。在宅勤務の動きもある。そのせいか朝7時台の梅田あたりは、人のいない瞬間が増えた。人が固まって歩いて来ても、波が収まるのが早い。

だが帰路は時差化されていないので、結局一定数の通勤客が固まって移動している。中学生、高校生などが移動していないだけ、夏休みのように空いていて快適さがあるが、列車内の混み具合はまだそこまでの減り具合ではない。

街そのものは空いている。

 

( ´ - ` ) はい。手洗い。うがい。しましょう。

 

昼の時点で体調がどうもおかしかったので、様子見のために金曜を休みにすることに決める。何か起きた時に何を言われるか分かったものではない。そうなんだよ同調圧力。同町圧力? 残念ですね。だがなあ。抗えない状況です。ヨドバシで体温計を買う。

 

夜は首相が中国、韓国に対して厳しい入国制限の措置を決定。発行済みのビザの停止、入国に当たっては指定の施設での14日間の待機。

世界中に急速に広まっている新型コロナに対して中・韓に絞る意味もそのうちなくなりそう(中国は武漢の強力な封じ込めが一定程度成功しているようで、3/6には武漢を除く新規感染者数はゼロとなった)。

 

日本ではライブハウスが新型コロナ感染の温床のようになっているが、まあなっているのではあろう、が、そういえば少し前にはclubも薬物の温床みたいな扱いだった。一部は事実だが。しかしライブハウス、ライブハウス、ライブハウス。本当か? ロビー活動の後ろ盾になる圧力団体や有力者がいないところは幾らでも名指しできる。馬鹿げた想像だが。クラスター、クラスター、クラスター。クラスターの存在はクラスター感染を前提として追跡調査・呼びかけ・PCR検査を行っているからこそ、クラスターとしてくっきりした像が浮かび上がるとも言えよう。韓国、イタリアのように無差別に広くPCR検査を行っていたら、感染者の層はクラスターではなくクラウドだっただろう。

 

 

◆3/6(金)

いまいちアレなので籠城する。「通常」と「花粉症」の状態レイヤーの間にもう1枚、くすんだレイヤーが挟まってる感じだ。寝る。

ギャラリーのラウンドがてら、京阪神の各地に撮影に出たかったが・・・。第七藝術劇場に映画を観に行きたかったが・・・。残念だ。寝る。  

ただの鼻風邪ぽく、平熱の35.5度で低空飛行し続けており、今流行りのライブハウスも行ってませんし、スポーツジムも縁がなく、海外も10年近く行ってませんので、まあ大丈夫かなと思います。寝る。
 
実家に立ち寄って録画してあった『麒麟が来る』を10分ほど見る。衣装というか、画面全体が「色」のハリボテでペラッペラで、何だか変な感じだった。奥行きのない、インスタのような画面。

ビデオを切って通常の民放に切り替わると、10分足らずでむかついてくる。客観的なニュースのみ見るに堪える。なのでWebから各地方自治体の会見の中継動画を閲覧します。くそっ。

 
何も出来ず、寝たり起きたりを繰り返しながら、手に取ったのはタランティーノ『イングロリアル・バスターズ』。

ハンス・ランダ大佐がすごかったな、実際のナチもあんな鋭い嗅覚の猟犬みたいなのが暗躍していたかと思うとゾッとする。別に笑えるシーンもないし、何も特に残らない――格別には面白いとも思わない作品だった。
と言いながらも黙ってじっと観てしまったのは、そこに描かれる人間の残虐性、ナチスの能天気なまでの差別意識や、かすかな言い回しや口調から敵を察知する鋭さ、それは相当コミカル化されているが、痺れる瞬間が多かったが故だ。痺れるのは同時に、秒の賭け引きの中であらゆる妙手を打ちながら切り抜けてゆく、ヒューマン・サバイバルそのものが描かれている点だ。結局は全部ひっくるめて喜劇(西部劇?)に仕上げてしまうのがタラ節だが、「何も残らない」のは、その古典的テンプレが効いているせいかも知れない。
 
 

◆3/7(土)

寝たり起きたり生活。
 
使った後のマスクを記録することにする。

もっと早くからやっておけばよかった。でも形状が決まってるからほぼ同じ写真になるけどね。元気を出そう。

 

何度体温計を見ても35.5℃で、毎年お馴染みの、単なる鼻風邪が花粉症に乗っかっているだけのようだ。かくなる上は全身を日光消毒する。しゅうう。

 

テンションが低いながらも比較的上がってきたのでDVDを見る。 わあい。
 
キューブリックの『シャイニング』を初めて見た。

こういう話だったのか・・・ 例の、隙間からゾンビみたいな顔で笑ってる男の顔、それだけしか知らなかったので、どんな話なのか想像もついていなかった。

現実離れした男のゾンビ顔のイメージだけが濃くk焼き付いていたが、舞台は現実に立脚した話。孤立した冬の山奥のホテルで、冬季限定の雇われ管理人として滞在する夫妻と娘の3人家族が、館に残る過去の殺人事件の記憶、ゴーストによって狂っていく。中盤から謎かけが始まり、ラストの集合写真で明らかになるが、どうやら主人公のジャック・トランスは過去にも存在していた人物で、このホテルの主だったらしい。そして殺人事件をやっているらしい。

タイトルの「シャイニング」は超能力のことで、息子が有する力なのだが、全くよく分からない。むしろジャックが、執筆の行き詰まりと妻との不仲とともに、精神を館に宿るゴーストの方へと傾斜させていくスピードの方が強度を以って描かれていて、ストーリーらしいものと言えば、狂気への傾斜ばかりだ。超能力より中年男性のヤバみの方が際立っている。ジャック・ニコルソンの演技が本当に素晴らしいので、酒をあおったり妻に迫ったりするジャックの表情だけでご飯3杯はおいしいです。妻の怯えっぷりがまた素晴らしい。演技とは思えない。

ストーリーが狂気への傾斜一辺倒になったのは、キューブリックスティーブン・キング原作の小説を映画化する際に、色々と省いたり書き換えたところがあるためだ。このあたりの話は有名らしい。

 

本作屈指のシーンの一つが、「All work and no play makes Jack a dull boy.」(仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に気が狂う。)とタイプされた原稿。

妻がジャックの様子をおそるおそる見に来た時に、タイプライターにはジャックはおらず、この一文だけが何度も繰り返された紙が差さっていた。それまでの展開から、ジャックはいよいよ狂ってしまうのでは・・・と思っていた鑑賞者も、ここではっきりと狂っていることを告げられる。だが狂気の原稿は1枚だけではなかった。ジャックがこれまで書き溜めてきた箱の中の原稿すべてが、この短文が繰り返され、埋め尽くされていた。1枚ずつ原稿をめくりながら、どれもこれも同じ文章しか書いていないことに、妻の恐怖が一気に高まる。恐ろしいシーンだ。痺れた。

ジャックは小説家志望で、冬のホテルの管理人を務めながら、作品を書きあげたいと考えていた。しかしこの分だとある時期から既に、何者かに意識を奪われていたのだろう。ご丁寧に、文章は全て同じながら、1枚ずつセンテンスの間の取り方、改行の仕方などのリズムが異なっている。日々異なる波長で同じメッセージを受け続けてきたようだ。ぞわぞわする。危険な狂気だ。何者かの声の中から完全に逃げられずにジャックは別の何かに変貌してしまっている。

 

息子のダニーも開けてはならない237号室の扉を開けたせいで、早々におかしくなってしまう。終盤、「REDRUM」と低い声で呟きながら寝室を歩き回り、母親の口紅で扉に「REDRUM」となぞり、それが・・・

最高だ。どうかしている。

 

( ´  ー` )うわあ。

元気が出たのか病状が悪化したのかよく分かりませんが、良い作品でした。2回目を観ようという気が一切湧きません。

 

そこに追い打ちをかけるように『時計仕掛けのオレンジ』をぶちこみます。うわあ。

 

うわあ。

ああー。これは20歳前後のうちに観ておくべきだった。ああー。

 

ナッドサット語がすごい押し寄せてきて、レトロで新しい感じ。造語のスピード感はどこかレトロみがある。この乳幼児がそのまま青年化したような出で立ちはどうだ。ミルク飲んでるしな。管理社会の申し子という皮肉なのかな。

 

余談ですが私が一番好きな造語、若者語をめちゃくちゃに盛り込んだ作品としてはこれです。使われているスラングがもう5~10年経つ昔のもので既に死後なのに、独特のべったりした音声と口調で語られると活き活きしている。

www.youtube.com

 

 さて、

一番このシーンが好きかな。ヘルス・ファームの猫おばさんと男性器のオブジェ(それは美術品よ!触らないで!と婦人絶叫)での攻防戦。なんだこのアクションは。男性器オブジェの存在感がすごい。写真にすら写らない動きである。

ここで主人公アレックスは婦人を殴打して殺害してしまう上に、仲間に裏切られて警察に捕まる。  

本作に多用されるナッドサット語の一つに「トルチョック」があります。いい響きだ。トルチョック。何か武力を行使したらトルチョック

 

収監後、人格を大人しくする施術が行われて別人になるというオチは知っていたが、それをアレックス本人が、周囲の反対を押し切って自ら希望したというのは初めて知った。しかもロボトミー手術ではなく、投薬と映画の強制鑑賞だった。へえー。強引ながらも外科手術ではなく、映像という文化的手法によって人格矯正するあたりがSFとして面白い。
 
 これも2回目を好んで観たいかどうかというと微妙。次は10年後かな・・・?
 
 
続けて『アイズ・ワイド・シャット』も見たが、面白かったものの、10年目の夫婦生活めんどくせえな、と思ってしんどくなった。まあね。みんなめんどくさいことやって生きてるんすよ。はい。

キューブリック監督、夫婦生活のあれこれ、誘惑やすれ違い、本音と嘘を描きながらも、最も美しくて重厚でみっしり描いていたのは、異端でデカダンな、秘密の集会のシーンだった。 密教めいた、背徳で頽廃的で、豪華な、欲望の宮殿の場面は、不可思議な音楽と併せて、とても良かった。他言できない密室の狂気が純化され、美を帯びるところを描くことにかけては、キューブリックは凄い。
  
 

◆3/8(日)

雨が降り続けている。

だるい。 
 
何となくだるい。
ただそれが魂の枯渇によるものなのか、風邪のせいか、何とも呼べない。呼べないが、だるい。たぶん、魂のせい。私が信仰を持たないせい。太陽と重力と時間の流れ、それがあるだけでもう精一杯なのだが。だめか。神などと手に負えない存在は、私には手に負えない。だが信仰から逃避し続けるのは、この地球上からの撤退をも意味する。何か悪いものでも食ったのか。かもしれない。だるい。総じて、脳が悪い。
 
3/5に俄かに発生した、Twitterでの少しばかりの騒ぎをきっかけに、写真とアートとの関係を考えた人も少なからずいたはずだ。私は今、脳が回らない。たぶん劣悪で弱いウイルスに冒されている。消毒をしよう。ラフロイグの焦げた香りが素晴らしい。効く。そのうち寝落ちするが。
 
アートは市場を前提とする。資本を前提とする。美術史を踏まえた思考ゲームを、ただの知的遊戯にとどめず、市場に連結させ、亜流の資産として承認せしめること、その体系化そのものがアートというシステムだ。自己の体と生活によって実践する、「私」の生業としての「写真」とは、別の系譜と言うべきだろう。一方で、今では写真もまた「アート」として市場価値を帯び、資産として流通するものも多々あるわけで、その領域の区分は絶えず揺らいでいる。
ナイーブな話だ。言葉を選ぶ必要がある。写真家百人集めれば百通りの「写真」がある... 体や言葉、生活みたいなものだ。
 
 
根本的にだるいので何もできない。
思うに脳が悪い。
できませんでしたが、FC版ドラクエ3のプレイ動画を観ながら、序盤のロマリア、アッサラーム、ピラミッドあたりまの難易度が高すぎる、鬼畜や、バギもギラも覚えるの遅すぎる、あばれざる強すぎ、大王ガマのラリホーが鬼畜、ひとくいばこの殺傷力めちゃくちゃや、などと唸りながら、時計を見ると16時、17時、18時。
 
本来は今日この日が「写真表現大学」修了制作展の搬入・設営日でした。今回の新型コロナ騒ぎの影響を鑑みて、7月に延期となりました。

今の状況が、序曲なのかどうか、誰にも分からない。

 

何も考えられないまま時間が過ぎ去った。

 

ただただ新型コロナの感染者数だけが少しずつ積み上がっていった。3/5から3/8にかけて、大阪府は17人から55人に、京都府は6人から8人に、兵庫県は3人から11人、愛知県は49人から80人に。

中でも横浜市の70代男性がエジプトから帰国後に発熱したにも関わらずスポーツジムを5回利用していた件と、愛知県蒲郡市で50代男性が陽性と判明した直後に2軒の飲食店をハシゴし、自分は陽性だと公言して警察を呼ばれた件は、象徴的な事案だった。

事実が小説や映画を超えている。日常的に創作を超えたことが起きていて、もう小説を読もうとか、テレビドラマを観ようなどという動機が、無いのである。

このオチの分からない現実の毎日を、1日1日やり過ごすことが、どこか痛烈なフィクションのようでさえある。ウイルスの感染の広がり自体や、政府の要請や政令による社会システムの変更はどうしようもない現実だが、その柱と柱の間を流れる諸々の憶測や報道、そしてそれらをどう理解するかという主観のありよう、揺らぎのありようは、白黒つけ難いもの――創作に近いものといった感がある。

 

誰もが手探りだ。

テレビを消してもTwitterを閉じても、特に気が休まるわけでもないし、有益そうな誰かのコメントをRTしてもなお、それを打ち消す更に妥当そうなコメントを発見してしまい、RTを重ねることの繰り返し、螺旋である。不安が螺旋する。

 

がんばろう。寝る。

 

 ( ´ - ` ) 完。