2020年のゴールデンウィークは、世界を挙げての前代未聞の自宅謹慎系連休となったので、記録をつけておこう。
生まれた瞬間から陰キャだった私には1ミリも影響がない。BBQ?どこの星の文化だ。ははは。
はあ、
<5/2(土)>
TVでは「GWも後半に差し掛かり・・・」と繰り返すのだが、うそ言うな。私は今、始まったところだ。おい。休みをくれ。
ください。
完璧なまでに家にいた。もうこれは完璧。どうだ。ははは。
BBQとは空想の産物であって、思想である、反知性的な思想の産物で、そんなものは本来は現世になかった。それを無理矢理、現実の世でやろうとするから、ゴミが出ただのうるさいだの感染源になるだのと騒ぎになる。だから脳内で繋がればいい。うそです。
明日は少しは走ろうと思う。
「ステイホーム」というのは「家」なるものが土地に固定されているから起きる号令なのだ。私達自体が「家」になればよかったのだ。自家用車というものがああも発達してしまった今では規格変更は難しいが、移動し続ける家、身体的接触を伴わずに移動・交流を可能にするフォーマットは物理的にはあり得たはずだ。うそです。
昼から「写真表現大学」の同窓生らと「Zoom飲み会」をやる。
日頃常用しているデスクトップPCはカメラもマイクも付いていない。スマホでやるのは気が引ける。東京遠征用のideapad s540が役立つ。なんて有用なやつだ。だが当の使用者本人の身体がオンラインの動画コミュニケーションに慣れていない。爺だ。こういう人間は早々に淘汰された方がいいと思う。どうですか皆さん。庭に穴でも掘ろうかな。
写真表現大学同窓生・Zoom飲み会の様子。
ラフい感じで近況報告や昼めしを兼ねつつフリートーク。
結果的に「アブサンとカフェインを随時投入して理性のフレームを緩めながら言語野を稼働させる」という一番あかん態度をやる。そういうところは20年前から大して変わっていない。在宅ワーク・オンライン会議が標準仕様になった社会では、私は真っ先にアルコール依存症に陥って淘汰されるだろう。もしなればだ、それは社会環境適応のための能動的・不可避のアルコール依存症であるから、労災認定してもらう必要がある。その時は署名活動をしよう。はい。
話題。
・「自粛警察」 ほんとクソだな
・夏まで自粛が続いたら地方、離島は本当に終わる。鳥取は夏に稼ぐ地域。
・ウイルスはパチンカーには通用しないのか? ⇒快楽バリア、快楽免疫仮説
・素人を装って撮った写真 ⇒けち付けられるとそれはそれでハラ立つ矛盾
・写真集をオンラインで紹介するの良いかも
しかし照明の当たり方、カメラ性能、受け手側の解像度スペック等に依存
(人によって写真が色のブロック、デザインと化しているらしい)
・VR、立体のニーズはあるか? →受けて側の環境とスペックによる
体感は未知数の拡張性あり よりリアルな記録と没入が可能(特に子供)
・自粛が終わったら、ZINE・フォトブックのグループ展やろう
12時半から始めて18時半ぐらいまでやってた気がする。楽しいけど、これ時間を無制限に食うやつだ。公私の区別が本当になくなる。人付き合いが逆に多い10代・20代とかはZoom疲れが深刻になりそうに感じた。30代半ばを過ぎると常人は家庭や子供というものを持つようになり、そないにZoomZoomしていられなくなるのです。※例外もいます。
写真集を買ったまま放置しているので、blogに強制的に短観を挙げるか、youtubeでゆっくり実況するか、荒療治しないとちゃんと読まない恐れがある。そうだなあ。
東京は感染者160人。計上の基準が分からないがそう簡単には減りそうにない。
大阪府知事は「外出自粛の解除や施設再開の措置について、15日に一部緩和するかを検討する」と表明。少しでも緩められるところは緩める、それは大変ありがたい。要は、海外帰り勢、ライブハウス客、クルーズ船解放組といった、特定のクラスター対策で対応していた時期に戻す感じだろうか。
ちょうしに乗って買い込んだ本がいよいよ部屋の棚に全く入らない。今まで買った本も分類がめちゃくちゃで把握できていない。本棚を追加しレイアウトを変える必要が浮上。
GWを倍に延ばしてもらわないと・・・
◆5/2(土)国内感染者数:14,877人
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<5/3(日)>
イエ派。
地元の心臓破りの坂を走る。破れますわ。
ぜえー。
良い汗、をかいていない。悪い汗。コーヒーの上位互換でカフェインに色々混ぜたやつ(脂肪燃焼系サプリ、リポドリン)を使っているため、汗が止まらない。汗には大量にミネラル分などが溶け込んで排出されるせいか、良い汗ではない。悪い汗である。ラン後に脳が枯渇して寝落ち。
だめだ。
デスの気配。
「ブックカバーを7日間続けて上げるバトン」がFacebookで流行っており、mixi的なノリですね、懐かしい。いただいたので、4/28より開始、図書を引っ張り出したり並べたりした。
そして気付いた。私の部屋は残念すぎる。
「確かフーコーの監獄がどうのという文庫があったはず」「おいバルトの明るいナントカってハードカバーそのへんに落ちてたやろ何処や」「悲しき熱帯の下巻だけがあるのなんでや」わかりません。致命的に蔵書を管理出来ていないことが分かった。後から本が出てくるわ、あったはずの本がないわ、読んでないわ。残念過ぎる。
怒りというより悲しみに襲われ、本棚を急遽増設することにする。
確か1年前に買って面倒くさくて放置してたスチル棚があったはずや。あるぞ。カモン。
棚の枠組みの状態で位置決めをする。現代アートだ。
もうこれ以上部屋に棚の置き場ないんだが、詰めればなんとかなる。なんとかなるんや。
部屋の真ん中に高さ180㎝の棚を置こうとしたが、有事の際に私がしぬので、諦めた。となると、もう窓をふさぐ形で置くしかない・・・ 日光が部屋から失われ、ゾンビ化していく・・・
◆5/3(日)国内感染者数:15,078人
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<5/4(月)>
イエ派。
メモすら残していないのでこの日のことは分からない。ただ家にいた。
厚労省より「新しい生活様式」が発表された。これは緊急事態宣言以前の生活へ戻すのではなく、真逆で、今の自粛生活を「新しい」スタイルとして定着してくれというものだった。新型コロナとの共生を長期スパンでにらんで、感染ありきで予防を保ちながら社会・経済活動を復旧させていくための規範というわけか。
内容は、個人の対策、日常生活の基本的な生活様式、各場面ごとの生活様式、働き方の新しいスタイルの4項目からなる。「人との間隔をできるだけ2m(最低1m)空ける。」「まめに手洗い」「会議はオンライン」「名刺交換はオンライン」といった、人との接触をできるだけ避けた行動が盛り込まれている。
社会生活=社交的であること、繋がりを意欲的に広げることがあらゆる分野で推奨されてきたのが現代である。オンライン・オフライン問わず、組織人・個人事業主・フリーランス問わず、社会人・学生問わず、言わば個人の売り込み、提案型セールスを万人が行う、個人の総営業職化が求められてきたように思う。自分の手元で制作、検索、発信が可能であるから、自前でマネタイズも可能だ、だから売り込みをしましょう、広げましょうという仕組みがあった。
ポストコロナではそのような、繋がり推奨・一辺倒だったヒトの在り方に一定の抑制が掛かる。
これを機に、深く個の内面や、人の群れ―群の内海に沈み込むような「社会生活」という在り方も、あり得るだろうか。
否、リアル空間での販路や集客が大幅に制限される以上、オンラインでの高度な疑似空間、次の「場」を創造・マネジメントする力が、より一層求められるのか。
ウイルスと自粛警察に干渉されざる系での、呼び込みと繋がりの力が求められるとなると、結局はオンラインサロン的なものへ収斂され、エンクロージャー化するのか。それは面白くない。従順な羊を集められる者が勝つ世界か。現代は絶対王政期に帰るのか。
・・・悪夢だ。
夕方、安倍首相より緊急事態宣言の5月31日までの延長決定が発表。ただし5月14日に、感染状況によっては解除も考えるという、経済活動への配慮も見せた。
◆5/4(月)国内感染者数:15,253人
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<5/5(火)>
イエ派。
心臓破りの坂を走りに行く。テニスコートから打ち音が聞こえる。客を入れているのだ。何かほっとする。
完全な休眠状態だった街が、徐々に部分的に動いている感じがしなくもない。そうでないとみんな死んでしまう。
だがTVが存在感を発揮するのは、自粛の協力を破る事例の指摘だ。
「みんな」が「我慢」「協力」していることに反する動きを、コメントとともに提供する。日頃マスコミに文句を言いまくってるはずの民は、なぜかより身近に怒る(憎む)べき対象を見つけたとなると、猛然と報道を引用して、感情を投げ付ける。
この生理がある限り、マスコミは安泰だ。この我々に備わっている「けしからん」という感情は何なのだろうか。秩序の源なのか、それとも・・・
東京の感染者が58人と2ケタに落ち着いているのは、連休中という検査体制のせいか、本当に症状を訴える人が減っているのか。
パチンカーがクラスター化しない謎は何だ。店側の感染対策が行き届いているからか、パチンコという特殊な行動(無言でハンドルを回し続け、唾も汗も出さず、基本的に他者との交流がない)のためか、欲望により免疫系が強化されるのか、このへん誰か科学的に調べてほしい。生き残るのは自粛警察か、それともパチンカーか。
◆5/5(火)国内感染者数:15,374人
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<5/6(水)>
イエ派。
オンライン化が進むというのは、公と私の境目がより曖昧になる――公化していくということだ。それは誰もが情報発信を行ったり、配信主になれる段階(10年前)を一つ二つ越えて、「場」への参加を24時間体制で求められる状態になることだ。常時誰かがトークを配信し、クラウドファンディングで支援を募り、投票を募り、Zoom交流会があり、・・・と、デフォルトで「公」が「私」の場に溶け込んでくる。環境的にはどれにも「参加」が可能である。どこまで「私」の「時間」という資源を投下するのかという「配分」の問題になる。つまり優先順位の闘争になる。
「用事があるから」「帰らないと」という方便は通用しなくなり、「Wi-Fi環境が不安定」「体調が悪い」「パートナーが怒っている」など、今までより少しずれた方便が駆使されるだろう。
GW後の緊急事態宣言の延長の中で、大阪府が独自に示した休業要請の緩和に向けた独自基準が、「大阪モデル」と呼ばれ始めた。国が具体的な数値目標を示さないことへのもどかしさが渦巻いている。後に国からは「休業要請は都道府県が独自に行うもので、その解除基準を都道府県が示すのは当たり前」とやり返しがあった。まあいいけどな。
Twitterでは演劇界、平田オリザの声明を中心として批判が起きている。自分たち演劇界隈「だけ」の窮乏を訴えているが、製造業などを引き合いに出して、自分たち「文化」サイドの特権性を訴えるのは思い上がりではないか、それで政府批判をしているのはどういうことか? という矛盾や傲慢さを指摘する批判の投稿が多数飛び交っている。画面を更新する度に誰かしらの批判が上がってくる。
これは演劇を真剣に学んでたり本当に真剣に食ってるだけの界隈の人は、迷惑というか、非常にきついだろう。
記憶がな
い。
また意識が・・・寝込んでいた。座ると寝落ちするので寝込むというのが定番になってきた。何か体内で酵素足りてないのでは。
意識。
意識とは何だ。
昼13時からZoomで勝又公仁彦×鈴木崇「遠隔オンラインワークショップ」を見学する。希望者は作品を画像データの形で提示し、講評を受ける。計8名の方が受講生として参加、あと20名ほどがオーディエンスとしてその様子を聴講した。
一貫して「我がこと」をいかにして「普遍性」を持たせ、「作品」として発表するかについて指導するものだった。
詳しくはこちら。
「でもここにいる我々は恵まれてるんですよ」と鈴木氏が口にしたのが象徴的だった。今日明日にでも手元の資金が尽きて、生活が回らなくなるかもしれない状況の人は、身近にいないだけで、とても多い。
「表現」はバカのように金がかかる。instagramにデータをupするだけなら安上がりだ。が、そこから一歩踏み込んで、メディウムへの問いに物理で回答し、物理空間での展示を介した「作品」へと昇華させるためには、大変な金がかかる。
思う。
コロナ禍が第2波・第3波と来た時、本当に政府の無策と産業転換の失敗と民衆の足踏みが重なった時、「表現」及びその使徒は憎むべきスノビズムの象徴となるかもしれない。だがゲリラのようにすり抜けて新しいフォームと力を帯びる表現もまたあるはずだ。私のようなのがバカ高い純正インクカートリッジでクリスピアを何枚も刷っては色味を確認している間にも、原価ゼロに近いZINEが鴉のように荒々しく社会を通り抜けていくのかも知れない。
◆5/6(水)国内感染者数:15,382人
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(※5/6までの感染者数はNHKのWebニュースより、5/7以降の感染者数は朝日新聞Webニュースより引用しているため、数値が微妙に異なる)
<5/7(木)>
出勤である。
これはやる気が出ない。「仕事があるだけ有難いと思え」と神様仏様にサンダガ落とされそうなアレだが、やる気が出ない。出ないんですよ。わかりますか。私は、もっと、連休というのは、連休っぽく、狂ったような量がないと、だめだと思います。文句言いながら仕事をしました。熱くない煉獄。
バンクシーが《Game Changer》を発表(投下)。額面通り、医療従事者を讃えるものか、それとも医療従事者をサブカルコンテンツのように使い捨てようとしている子供のような政府や国あるいは大衆を皮肉っているのか、Twitterでは活発な読み解きが流れてきた。
読解の自由を呼び込む、分かりやすい入口と分かりやすい謎を用意しているのが、本当にバンクシーは上手い。ヒット作の漫画のように、入口と動線とその先の迷路がしっかりしている。そこには専門家も素人も関係なく読解(誤読)を主張できる自由がある。
逆に、正しい絶対の「解」が存在しない、ということを認める度胸が求められる。ストリートの流儀でもある。学者や研究者に絡め捕られて語り尽くされることを、ストリートは、都市は、拒否する。拒絶してほしいと願っている。そうか。それもまた願望に過ぎないのか。であればいかなる「表現」も、大衆の願望が投げかけた影に過ぎないのか?
自由はあるのだが出勤もある。疲れた。だが帰路でラーメン屋が開いているのを見かけて、希望がわいた。長らく閉まっていたのだが、開いた。
少しは人が増えた気がするが、目に見えて家から街への戻りが進んでいるとは思わない。むしろ「都市部」では括れないそれぞれの「地元」での外出頻度が増しているのだろう。
大阪で8人、東京で23人と、新規感染者数が激減している。どうしたSARS-CoV-2。こんなに呆気なく静かになっていくと、逆に・・・不安になる。
◆5/7(木)国内感染者数:15,586人
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<5/8(金)>
太陽の光が強まり、気温も上がってきて、だんだんと生きる力が高まってきました。わあい。筆者は夏生まれのため夏が近づくと本能的にテンションがあれします。わあい。
わああい、
仕事がだるいのは変わりません。わあい。しぬ。
帰路、ヨドバシカメラ梅田店が開いていることに気付く。いつの間に開いたんや。それは嬉しい。実用性というよりも気分として嬉しい。ようやく長いお通夜が終わったような、暗雲に晴れ間が訪れたような気がした。長いと言っても西欧のロックダウンに比べれば予行練習程度のものだったが。心理的には鬱屈してる。
SONY RX100M7をずっと狙っているのだが、とにかく高いし、店頭でも15万円超えで、家族を人質に取られて脅迫されてるかギャンブルで当てたかしない限り買える代物ではない。コンデジで15万円。そうか。
ヨドバシが開いていても、周辺のグランフロント、大阪ステーションシティ、ルクア、ルクアイーレ等は全部休眠状態。ただがらんどうの吹抜けを通り過ぎるのみ。
◆5/8(金)国内感染者数:15,676人
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<5/9(土)>
buttao-rete- nete ta.
ぶったおれてねてた。
なぜか。
反動である。普通にカフェインを使ってもだめなので、リポドリンなどを用いて意識を上げるわけだが、前々から喩えているとおり「悟空がサイバイマン倒すのに界王拳使い始めたらもう末期」なわけで、仕舞いには「妻と会話するために界王拳」「風呂に入るのに界王拳」「界王拳を使うために界王拳」という訳の分からない状態に容易に陥りかねない。使う側のリテラシーが相当高いか、人の警告を馬鹿正直に守り通す純朴人でないと無理筋であり、あれは悟空だから伝授されたものと言えるだろう。
さて「哲也」を久々にYouTubeで開いたら、麻雀を1ミリも知らないのに玄人(バイニン)の手練手管のせめぎ合いが面白すぎて、単行本の方に手を付け始めた。そうなのですよ。本当に面白い作品というのは、題材・舞台となっているゲームのルールが1ミリも分からなくても、その世界を見ていたくなる。そういう仕掛けがあるし物語の力がある。
夜になって体が動き始める。
緊急事態宣言解除へ向けた国や自治体の動き、そして街の様子を話題にしている。宣言及び休業要請といった感染封じ込め策の根幹が「自粛」という、市民の自由意思に基づく(ように擬態された世間全般に向けた穏やかな強制含みの空気感)ものだから、こうした「街の様子」のチェックは欠かせないというわけだ。
「都市は生きている」という陳腐な喩えは、増殖、再開発の活発なハードウェアとしての様態を表したものだけではない。企業化された経済活動の舞台としてだけでもない。
まず都市自体がその内を行き交う人間を監視する場・主体である。そして同時にこうして、その状態をマスコミや行政によって監視され気遣われる客体であることで、都市の「生」が確認・立証されていることが今回明らかになった。
都市自体の有する監視機能だけでなく、公衆衛生、防疫、治安維持の観点から観測されることによって「生きている」ことの確認が為されるというのは、すなわち「市民」が市民としての責務を守っているかどうかの健全さを測定・管理するために観測・監視されていることに繋がる。ここで都市に不健康な兆候、紊乱や頽廃が見られなければその「生」が確認される――「街は人通りがなく静かです」「先週に比べて人通りは更に減りました」=「市民がルールを守っているので”健全”です」ということの裏返しである。
私達は「個」としての自由を保障されている反面で、二律背反的に「市民」としてあるべき強制に従うことを求められているが、その健全なる人口の総体・象徴として「都市」はあるようだ。これが政権のにらむ経済活動の先行きや医療行政上の思惑から大きく外れた動きを見せた際には、「都市」はその「生」をあやうくする。
その時には強力な措置が取られ、生き生きと動いているのは監視カメラと警備員とパトカーだけになるだろう。何故か?分散した「地元」を観察し健康状態を確認することは行政やマスコミにとって不経済、非効率的であるからだ。健全なる「市民」の総体である「都市」を定点観測することで「市民」を代替的に監視する、この写し鏡の状態が重要なのである。となると「市民」の側の「生死」において政策上重要となるのは、官公庁、大企業や大規模商店の従業員ということになりはしないか。
ここに個人事業主や文化の現場の担い手はカウントされない。
◆5/9(土)国内感染者数:15,790人
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<5/10(日)>
棚が大量に届いている。GW中に業を煮やして注文した分が揃っている。5,6本ある。さあどうしてやろうか。組み立てるしかない。
汗をだらだら流しながら、段ボールの封を切っては、板を床に積み、ドライバーを回していく。日頃は体を動かすのが億劫だが、マニュアルに沿ってシステマティックに動くのは、得意だ。義務教育の賜物である。公務員か工場労働者になるために作り出された身体だ。
回せドライバー。まわせドライバー。
ドライバーをまわせ。ドライバーを回せ。
そうすりゃきっと明日が来るぞ。
スクリュー・ドライバー
スクリュー・ドライバー。
きっと明日が来るぞ。
昼過ぎには完成し、部屋の中での配置も収まった。
が、勢いが良かったのはドライバーまでだった。肝心の本の整理のところで完全に躓いた。何の本をどの棚のどの位置にどう固めるか・・・ 全く頭が動かない。ふて寝する。明日なんてくるもんか。しらん。
( ´ - ` ) しらんしらん。
夜中に力尽きてLPジャケみたいにして遊んだ。
中平琢磨とナン・ゴールディンが好きなんだよ。ドラッグ・・・ 何でもない。
配置の都合上、部屋の窓が完全に塞がれた。これで朝昼晩の時系列が消失した。蛍光灯を付けなければ真っ暗だ。風水的には最悪である。
本の配置。
悩む。
「資料のアーカイブとして整理したい姿」と、「座席からすぐ手に取るための実用的な配置」や「どこに何の本があったか身体的に記憶していられる配置」は、全く意味が違う。
本を入れる段になって、当初は前者の観点で考えていた「理想的なジャンル毎の綺麗な整理」が崩壊した。
最も大きな課題・テーマはまさに「身体的な記憶」の整理と強化だ。「ここにはこの本がある」「あの本はこのへんにある」を徹底したい。今は残念ながら、本が家にあったこと自体を忘れている状態で、相当まずい。
イヤになりすぎて、あちこちの棚から本を引っ張り出しては、そのへんに置いて長考する、というのを繰り返した。
この繰り返しはその後、1週間続いた。えらいもので、時間をかけていくと、段々と収まりがついてくる。そのために他の部屋の全ての本棚を触って、中身を順次入れ替えていくという随分大きな作業になってしまった。
何となく作品の編集作業に似ている。一度組み上げて全部また壊し、そこから部分的に再組織化を繰り返させる。そうして自己組織化によって最適解を模索する。
家に居る方がやることが多いのだった。
◆5/10(日)国内感染者数:15,860人
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