2022年7月8日(金)11時36分頃、奈良県奈良市・近鉄西大寺駅前で選挙演説中に安倍元首相が銃撃され、心肺停止、同日17時03分に死亡が確認された。縁もゆかりもなく特段の関心もないのだが、そわそわしているので手元、身の回りについて書き残しておく。
柄にもなく時事についてつれづれなるままに書き残しておきたい。特に政治的信条も思想もないが、それゆえにうっすらと不気味さというか消化できないものがある。触れないでおこうとも思ったがなぜかTwitterでふつふつとそれ関連のことを呟いてしまう。至ってヘラヘラしているのだが何もしないでいることができないぐらい浮ついている。
2022.7/8(金)
2022.7/9(土)
昨日から朝にかけて、Twitterは安倍元首相死亡に関する話題が8~9割近くで、話題は事件の速報と哀悼の念、テロはよくない等の初期段階のものから徐々に移行している。
「デマに注意」や「この人はこんな悪質なデマを~」といった警鐘系ツイは昨夜から多く出回っている。ただ今回は目に見えて直接的な殺害で、ナマの動画も多く出待っているためか、陰謀に結び付けようにも想像の余地が乏しいのか、原発事故やコロナワクチンなどとは比べ物にならないほど少ない。
同じく昨夜あたりから犯人手製の銃に関する考察は多い。元海上自衛隊員ということだが、2005年頃まで3年間務めただけといい、今回の銃の自作と経歴を結び付けることの無理筋さを指摘するツイも多い。「特定の宗教団体に恨みがあった」という根本的な動機が早々に語られたことで、掘り下げようがなく、透明度の高さゆえに話題はあまり広がらない。
それをテレビのニュースなどは、犯人の日頃の様子・態度や、元職場での態度・トラブル、学生時代の様子など、とにかく生来的なメンタリティや内因性に事件の萌芽を語ろうと変な切り口でストーリーを組むのでとにかく気持ちが悪い。Twitterではヘラヘラしていた私だったが、テレビを付けたらものの5分で腹が立ちすぎて気持ち悪くなった。マスコミの筋書きで社会・個人の病理を語って診断し、その予防薬を画面越しにこちらへ飲ませようという態度が透けて見える。ばかをいえ。薬は私が選ぶのだし、病理は「特定の宗教団体」の搾取的支配構造に切り込まない限り語れないのは誰よりもそっちが知っているはずだろう。だめだ。テレビはディスカバリーチャンネルを映すための価値しかない。
とにかく今回の銃撃事件が異様なのは、駅前での選挙演説ということもあって、死=殺害場面が豊富に共有されていることだ。一般人の録画した動画がTwitterでもニュースサイトでもガンガン出回っているのだ。TV番組では銃撃の瞬間を大きなボカシで隠していたが、銃撃1発目、安倍氏とそのSPら取り巻きを含む全員のが背を向けたまま動きを止め、2発目を撃ち込まれて安倍氏が倒れ一気に我に返って時間が動き出す、その瞬間のことが、幾らでも閲覧できた。
こんなに克明にナマの銃撃・人が殺されるシーンを国民が共有し合ったことが今まであっただろうか?
1995年3月20日にオウム幹部・村井秀夫が刺殺された時も、TV中継が回っている最中ではあったが、報道陣でごった返す中でのことで行為の中身は見えなかったし、当時はTVからしか見る術はなかった。TV局が自粛すればもう見られない。今回は意味が違う。安倍氏は我々の手元で何度も蘇って元気に演説し、何度も銃撃に倒れるのだ。
しんどいのでSNSを離れます・閉じますという投稿も身の回りでちらほら見られた。私のようなのが前頭葉がマヒした状態で思慮浅くぽふぽふ思いつきざまに投稿するのは、感受性の高い人たちにとっては単純にキツいだろう。人が殺されているのだ。
安倍氏の救急治療対応に当たった奈良県立医大付属病院にクレームが殺到している、という、いつも通りの極めて嫌な話題が目についた。どうしてこうも妙な方向に行動力が特化したBAKAが突進するのだろうかと腸が変な感じで嫌な汁を出す思いがした。ところが後に「病院へのクレームはデマ」だというツイが流れてきた。病院関係者のツイか、病院への電話取材で明らかになった模様。
それまでも昨夜から、救命のために使われた輸血量が「100単位以上」という驚異的な量だったことが話題になっていた。昨日18時頃から病院が行った記者会見で明かされた量だ。1単位が200ml、これも種類などによるので一概に「何人分」とは換算できないようだが、壮絶な救命の現場だったことが想像される。
「民主主義の根幹」「民主主義への挑戦」という言葉が、主に政治家や参院選候補者側から発せられていた。同時に、安倍元首相が亡くなったことの悲劇と悲しみと、参院選での投票とを混同してはならない、と「投票は香典じゃない」がハッシュタグで流れた。自民党に入れること自体がけしからん、という人や、情緒的なものと切り分けて冷静に投票しよう、と訴える人や、色々な声があった。
私のTwitterは右・左の偏りがあまりないようニュートラルなフォローで構成しているが、写真やアート関係者が必然的に多くなるため、この一、二週間は「表現の自由」やアニメ・マンガ表現を守るための投票先を指南・シェアするための投稿が溢れていた。それが一変した。投票というものそのものが争点になった気がする。投票所を標的にやらかしてしまうような、変な模倣犯が現れないことだけを祈る。
さすがに「自民党に入れる奴はどうのこうの」と攻撃する人は私のタイムラインでは出てこないが、少し踏み込めば、反対意見は根強いし、逆に「安倍さんは立派だった」と最大級の賛辞を送る人も絶えない。人それぞれだ。これはもう個々人で勝手にやってくれと思う。私の曖昧なスタンスはどちらも許容しつつどちらにも寄らない。
だが落合陽一氏の投稿に反発して噛み付く反応は、昨日に引き続いて多く見られた。表現界隈の関係者が多く反応したのだろう。
政府で働く人の悪口をみんなで言うと,その悪口を聞いた誰かが,日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ.その人が撃たれた後にみんな暴力はいけない断固として許せないって言うんだよ.言葉の使い方は気をつけようね,みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね,メディアも個人も.
— 落合陽一 Yoichi OCHIAI (@ochyai) 2022年7月8日
この投稿へのRTがすごい。
反発や怒りをあらわにしている層は「政権・権力を批判すると、それに後押しされた人が凄惨なテロ事件を引き起こすかもしれない(から止めましょう)、という悪質なこじつけ」「悪口という言葉にすり替えて政治批判を封殺しようとしている」「こんなのが知識人か」「民主主義の否定」と怒涛の勢いで怒っていて、私のフォロワーも怒りのRTを繰り出していた。
これに対し落合氏本人と擁護者は「"悪口"というのは本当に誹謗中傷や侮辱を指すのであって、批判とは別のもの」「切り分けて考えられないのか」と反論。
それぞれの捉え方で言えばどちらも正しいということになるので、私は特に言うことがなかった(どうも糸井重里的な丸い言い回しにされると反応が鈍る模様)のだが、全く別角度から思ったことがあって、それは「権力者との距離感が違うと、前提条件が共有できなくなる」ことだった。
つまり、安倍晋三のごとき国家級VIP人物と直接の接点が何かしらあった人と、メディアや世論を通じて一方通行でしか知らない人とでは、基本的な世界線が異なるという可能性だ。
前者にとって安倍氏は恐らく――あまり考えたくもないが、非常にフレンドリーで気さくで、頼もしい為政者であり好人物であったろう。一方、後者のうち反対・批判する層にとっては、安倍晋三とはモリカケ問題を放り出していち公務員に詰め腹を切らせ、シンパ(安価な愛国者)とは仲良くするが考えの合わない人(共産党とか?)には徹底的に攻撃・排除するという、まるで国賊、みたいな、両者の間にはすごい断層があり、同じ人物の話をしていながら全く噛み合う余地がない。
だが後者が前者に転じたとき、これまでと同じ舌鋒鋭い批判者のままでいられるか、懐に抱かれてしまって考えが一変してしまわないか――『宝石の国』の月人体験のように、という問いが、私には強く取り巻いている。
この問いは、河瀨直美監督の『東京2020オリンピック SIDE:B』を観て、バッハ会長や森喜朗の「報じられてこなかった素顔」に触れたときに不意に生じてしまった、親愛の念を巡る問いに由来する。
国家権力者、すなわちコミュ力の世界頂上戦を極める人間の素顔や素肌に接してしまったら、たとえそれが鍛え抜かれた演技や演出であってしまっても、見る世界は一変してしまうだろう。その恐れがあるからこそ多くの人が過剰なまでに、全体主義という言葉を使ってまで落合氏に反発したわけだろう。が… こればかりは実際問題難しい。
とつらつら書いていたら、また別のアクティビストの香ばしい話題が上がっていた。
フェミニスト仁藤夢乃氏「今回の様な事件が起こりうる社会を作ってきたのは安倍政治・自民党政権」
— 滝沢ガレソ⭐ (@takigare3) 2022年7月9日
↓
神戸新聞が「仁藤氏が『安倍元首相は自業自得』と主張」という記事を出す
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仁藤氏「自業自得なんて言ってない!デマのせいで誹謗中傷された!」
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言ってる/言ってない論争に発展@colabo_yumeno pic.twitter.com/bcTu087FNh
( ´ ¬`)
象徴的な事件、喪失が起きると、色々な感情の昂ぶりや、耳目の集めやすさからPR好機とばかりに、言いすぎ・行き過ぎが必ず出るもので、まあ炎上狙いで自己のポジションやスタンスの色味を強烈に出していくのが最初から目的であるならどうしようもないのだが、何かと「人間性がめくれる」事態には気を付けたいところ。
7月10日0時。日付が変わった。Twitterのタイムラインからは安倍氏に関する話題の割合が随分減り、通常運行のネタが多く見られるようになった。明日(今日)の日中~夕方にかけては、何処の誰に投票した方が良いか、どこがトンデモ政党かを巡る選挙運動会場と化していることだろう。
しかし今回の銃撃事件での最大の発見は、緊急時にこそプロの業は冴えるという事実だった。
ものすごい的確な(報道的に)写真だと思ったら記者が安倍氏の演説取材で現地にいたのか。やはりプロは違う。写真自体のボディもさることながら撮り手の反射的な判断が冴えてる。総員スマホ社会になっても咄嗟の技術に大きな差が出る
— hyperneko (@hyperneko_X) 2022年7月8日
https://t.co/b1EVo6TFia
銃撃直後、新聞に速報が並び、現場の写真が付され、「いつものように通りがかりの人や選挙演説傍聴者が手元のスマホで撮っていた写真か…」と思いきや、朝日新聞Web版の写真は完成度が異様に高かった上に、何枚もクオリティが持続し、しかも時間の流れを刻んで事態の進行(銃撃から犯人取り押さえ、倒れる安倍氏)を的確に押さえていたのだ。
朝日新聞・上田真美記者の撮影である。
ここでいう「クオリティ」「完成度」というのは、起きている事態を一定の距離感=客観性のもとで、個人の主観・感傷に揺さぶられることなく伝えるフォーマットを指す。これは報道の現場でしごかれて身に付けた、職業的訓練の賜物と言って良いだろう。突発的かつ凄惨な現場で感傷・動揺を交えず、的確に動きながら事件の流れ全体を追い、一定の距離を保ちつつ、取りこぼしなく事態をフレームに収めていく、これがどれほど困難な仕事であるか。
「プロの写真」という、まるで昭和のような言葉が脳裏にずっと響いていた。
こうした仕事を見られたことで、いつもの「動画の即応性、スマホの普及率によって、オールドメディアの”写真”は役目を終えたのだ」という諦念の確信めいたものは、ぱあっと霧消するがごとき思いがした。写真は、果たすべき役目がまだあると。
( ´ - ` ) 完。