nekoSLASH_記録編(日常・登山)

『nekoSLASH』分家。日常、登山、廃墟、珍スポットの記録集。

【diary】R4.7/8~9_安倍元首相銃撃、死亡

2022年7月8日(金)11時36分頃、奈良県奈良市・近鉄西大寺駅前で選挙演説中に安倍元首相が銃撃され、心肺停止、同日17時03分に死亡が確認された。縁もゆかりもなく特段の関心もないのだが、そわそわしているので手元、身の回りについて書き残しておく。

 

 

柄にもなく時事についてつれづれなるままに書き残しておきたい。特に政治的信条も思想もないが、それゆえにうっすらと不気味さというか消化できないものがある。触れないでおこうとも思ったがなぜかTwitterでふつふつとそれ関連のことを呟いてしまう。至ってヘラヘラしているのだが何もしないでいることができないぐらい浮ついている。

 

2022.7/8(金)

昼前、職場が「散弾銃で・・・」「撃たれて・・・」とざわざわしていたので、またどっかの市役所でも襲撃されたのかと思い、「まったく”無敵の人”にはかないまへんなあ~~」と言っていたら、スッとスマホ画面を見せられ、まさかの安倍元首相だった。
 
「安倍元首相が散弾銃で撃たれたか」
見せてくれたニュースの見出しはあまりに象徴的すぎて目を疑った。創作物のタイトルでもここまで象徴的な組み合わせの言葉はない。誰も思いつかないということではなく、逆に誰もがベタに思いつく悪態か神話のような単語の組み合わせで、そんな事案が発生するなんてのは革命やクーデターの起きる発展途上国や社会主義国家なのだと思っていた。
 
12時過ぎの時点で「心肺停止」の言葉が見出しに出ていたので、既に相当イカンことになっていたようだ。
 
奈良で散弾銃というのだから、狩猟免許を持ったタフな元・猟師が引き金を引いた姿を想像していたが、後に大学生みたいな風貌の41歳男性がハンドメイドの水平2連の2連発式銃を用いたことが判明した。政治的信条などからではなく、「特定の宗教団体への恨み」というわけのわからない、生活苦と精神苦が入り乱れたような動機だった。テロリストですらなかった。
 
政治ですらない不可解で突発的な銃弾によって、安倍という生身の人物は、透明な抽象化を施されたような印象を受けた。象徴化である。
 
象徴的な死は生前の様々な事実、記録、係争中の物事をも、象徴化する恐れがある。
 
在任中は権力者としてあまりに強く、身勝手で、そして支持も厚かったがゆえに、反対勢力による悪辣で攻撃的な批判キャンペーンすら許容範囲めいて成立していた。
シーソーの片側が具体的な「悪」業を曖昧に遺したまま、象徴的な「死」によって、言葉によってのみ歴史化する。それは片側にあった批判者らを愚かで暴力的な存在として浮き上がらせてしまうかもしれない。そして身内側を自然と神話化するようにも機能するかもしれない。突発的で純粋な悪意が命を奪うというのはそういうことだ。故人を慕う者の思いの力は止められない。
 
 
安倍元首相はかつて「美しい国」「日本を、取り戻す」と繰り返していた。その言葉が図らずも成就されてしまった。絶対に責のない、120%の悪意と暴力性で、一方的に命を奪われたことによって、その存在は象徴化し、今後、時間をかけて、惜別や哀悼の念とともに、自身が舵取りに携わった「日本」とないまぜになった形で、「美しく」語られていくのではないかと邪推する。「国」や「歴史」はそれそのものの物質として目に見えないから、「語る」ことを写真や象徴と結び付けることによって可視化される。
 
反対勢力からの10年来の批判行為は、逆に暴力的と批判されるかもしれない。秀逸なヒールがいなくなれば、シュプレヒコールとともに振り上げた拳とプラカードは宙に浮いてしまう。SNS社会では拮抗状態にあった当時の映像が愚として晒され直されたりする。一方で「死んでも何も惜しくないが?」とのレスが著名人に大量に付くのも散見される。どちらも一般人の生活感情、喜怒哀楽の念からはどこかズレている。
そういうズレを(ほうぼうの正義の信念と主張のもとに)浴びるほど見せられたら、若い世代は「政治」的なものから距離を置くか、Twitter自体を敬遠したほうがいいと自然と学ぶかもしれない。実際インスタやTikTokに流れているのはそういうことではないか。
 
国や故人が美しいのは非常にけっこうなことだが、そこには「誰にとっての」という対象や所有格のようなものすら仮定されている。安倍政権における「美しい国」とは、それが露骨だった。「コスプレ右翼」という造語はクレバーな指摘だったように思う。安倍本人を含めた狭隘な身内に共有された、排他的で危険で残念な美的センスであり国家観だった。政権批判への自己検閲が美術館や美術関係者サイドにも広がり、表現の不自由が現実に生じていたという。
 
今回の一件で、彼は「美しい日本」へと本当に帰依してしまった。銃で人の命を奪うというのは、批判・批評をも寄せ付けない神話スイッチを作動させてしまう恐れがある。60年代の「革命」で銃が象徴化された理由もわかる。象徴の対象が逆転しているのが今日的だが。
 
 
私は、日本のあるべき姿を語る術を持たないが、「あなたは安倍が好きか」「支持するのか」と問われれば、好き嫌いというより当時の支持者の偏りとそれへの乗っかり方が危険だったので、そんな神輿は担ぎたくないと常々思っていた。だが、利益はしっかり享受していた。複雑な心境である。みんなには黙っていたが、選挙の度に自民党に入れたことも一度や二度ではない。美術界隈でそんなことを言ったら非国民扱いされるから絶対にSNS等で書かなかった。だがやはり安倍政権のやり方は、批判すべきものを多く孕んでいた。その全てを握る実体としての当事者が、象徴的に亡くなってしまった。
 
実際のところ反対勢力の多くの人が「○んだらいいのに」とか「○ね」といった怒りと呪詛の言葉を胸に抱えていたとは思う。他の首相とは比べ物にならないぐらい生理的なレベルで嫌悪されていた。ただ、やっちまいたくなっても、実際にやっちまうのは、よくないということが今回よく分かった。だんだんと、そのシンプルな当たり前のことが身に染みてくる。
 

 

2022.7/9(土)

昨日から朝にかけて、Twitterは安倍元首相死亡に関する話題が8~9割近くで、話題は事件の速報と哀悼の念、テロはよくない等の初期段階のものから徐々に移行している。

 

「デマに注意」や「この人はこんな悪質なデマを~」といった警鐘系ツイは昨夜から多く出回っている。ただ今回は目に見えて直接的な殺害で、ナマの動画も多く出待っているためか、陰謀に結び付けようにも想像の余地が乏しいのか、原発事故やコロナワクチンなどとは比べ物にならないほど少ない。

 

同じく昨夜あたりから犯人手製の銃に関する考察は多い。元海上自衛隊員ということだが、2005年頃まで3年間務めただけといい、今回の銃の自作と経歴を結び付けることの無理筋さを指摘するツイも多い。「特定の宗教団体に恨みがあった」という根本的な動機が早々に語られたことで、掘り下げようがなく、透明度の高さゆえに話題はあまり広がらない。

それをテレビのニュースなどは、犯人の日頃の様子・態度や、元職場での態度・トラブル、学生時代の様子など、とにかく生来的なメンタリティや内因性に事件の萌芽を語ろうと変な切り口でストーリーを組むのでとにかく気持ちが悪い。Twitterではヘラヘラしていた私だったが、テレビを付けたらものの5分で腹が立ちすぎて気持ち悪くなった。マスコミの筋書きで社会・個人の病理を語って診断し、その予防薬を画面越しにこちらへ飲ませようという態度が透けて見える。ばかをいえ。薬は私が選ぶのだし、病理は「特定の宗教団体」の搾取的支配構造に切り込まない限り語れないのは誰よりもそっちが知っているはずだろう。だめだ。テレビはディスカバリーチャンネルを映すための価値しかない。

 

とにかく今回の銃撃事件が異様なのは、駅前での選挙演説ということもあって、死=殺害場面が豊富に共有されていることだ。一般人の録画した動画がTwitterでもニュースサイトでもガンガン出回っているのだ。TV番組では銃撃の瞬間を大きなボカシで隠していたが、銃撃1発目、安倍氏とそのSPら取り巻きを含む全員のが背を向けたまま動きを止め、2発目を撃ち込まれて安倍氏が倒れ一気に我に返って時間が動き出す、その瞬間のことが、幾らでも閲覧できた。

こんなに克明にナマの銃撃・人が殺されるシーンを国民が共有し合ったことが今まであっただろうか? 

1995年3月20日にオウム幹部・村井秀夫が刺殺された時も、TV中継が回っている最中ではあったが、報道陣でごった返す中でのことで行為の中身は見えなかったし、当時はTVからしか見る術はなかった。TV局が自粛すればもう見られない。今回は意味が違う。安倍氏は我々の手元で何度も蘇って元気に演説し、何度も銃撃に倒れるのだ。

 

しんどいのでSNSを離れます・閉じますという投稿も身の回りでちらほら見られた。私のようなのが前頭葉がマヒした状態で思慮浅くぽふぽふ思いつきざまに投稿するのは、感受性の高い人たちにとっては単純にキツいだろう。人が殺されているのだ。

 

安倍氏の救急治療対応に当たった奈良県立医大付属病院にクレームが殺到している、という、いつも通りの極めて嫌な話題が目についた。どうしてこうも妙な方向に行動力が特化したBAKAが突進するのだろうかと腸が変な感じで嫌な汁を出す思いがした。ところが後に「病院へのクレームはデマ」だというツイが流れてきた。病院関係者のツイか、病院への電話取材で明らかになった模様。

それまでも昨夜から、救命のために使われた輸血量が「100単位以上」という驚異的な量だったことが話題になっていた。昨日18時頃から病院が行った記者会見で明かされた量だ。1単位が200ml、これも種類などによるので一概に「何人分」とは換算できないようだが、壮絶な救命の現場だったことが想像される。

 

「民主主義の根幹」「民主主義への挑戦」という言葉が、主に政治家や参院選候補者側から発せられていた。同時に、安倍元首相が亡くなったことの悲劇と悲しみと、参院選での投票とを混同してはならない、と「投票は香典じゃない」がハッシュタグで流れた。自民党に入れること自体がけしからん、という人や、情緒的なものと切り分けて冷静に投票しよう、と訴える人や、色々な声があった。

私のTwitterは右・左の偏りがあまりないようニュートラルなフォローで構成しているが、写真やアート関係者が必然的に多くなるため、この一、二週間は「表現の自由」やアニメ・マンガ表現を守るための投票先を指南・シェアするための投稿が溢れていた。それが一変した。投票というものそのものが争点になった気がする。投票所を標的にやらかしてしまうような、変な模倣犯が現れないことだけを祈る。

 

さすがに「自民党に入れる奴はどうのこうの」と攻撃する人は私のタイムラインでは出てこないが、少し踏み込めば、反対意見は根強いし、逆に「安倍さんは立派だった」と最大級の賛辞を送る人も絶えない。人それぞれだ。これはもう個々人で勝手にやってくれと思う。私の曖昧なスタンスはどちらも許容しつつどちらにも寄らない。

 

だが落合陽一氏の投稿に反発して噛み付く反応は、昨日に引き続いて多く見られた。表現界隈の関係者が多く反応したのだろう。

 

 

この投稿へのRTがすごい。  

反発や怒りをあらわにしている層は「政権・権力を批判すると、それに後押しされた人が凄惨なテロ事件を引き起こすかもしれない(から止めましょう)、という悪質なこじつけ」「悪口という言葉にすり替えて政治批判を封殺しようとしている」「こんなのが知識人か」「民主主義の否定」と怒涛の勢いで怒っていて、私のフォロワーも怒りのRTを繰り出していた。

 

これに対し落合氏本人と擁護者は「"悪口"というのは本当に誹謗中傷や侮辱を指すのであって、批判とは別のもの」「切り分けて考えられないのか」と反論。

 

それぞれの捉え方で言えばどちらも正しいということになるので、私は特に言うことがなかった(どうも糸井重里的な丸い言い回しにされると反応が鈍る模様)のだが、全く別角度から思ったことがあって、それは「権力者との距離感が違うと、前提条件が共有できなくなる」ことだった。

つまり、安倍晋三のごとき国家級VIP人物と直接の接点が何かしらあった人と、メディアや世論を通じて一方通行でしか知らない人とでは、基本的な世界線が異なるという可能性だ。

前者にとって安倍氏は恐らく――あまり考えたくもないが、非常にフレンドリーで気さくで、頼もしい為政者であり好人物であったろう。一方、後者のうち反対・批判する層にとっては、安倍晋三とはモリカケ問題を放り出していち公務員に詰め腹を切らせ、シンパ(安価な愛国者)とは仲良くするが考えの合わない人(共産党とか?)には徹底的に攻撃・排除するという、まるで国賊、みたいな、両者の間にはすごい断層があり、同じ人物の話をしていながら全く噛み合う余地がない。

 

だが後者が前者に転じたとき、これまでと同じ舌鋒鋭い批判者のままでいられるか、懐に抱かれてしまって考えが一変してしまわないか――『宝石の国』の月人体験のように、という問いが、私には強く取り巻いている。

この問いは、河瀨直美監督の『東京2020オリンピック SIDE:B』を観て、バッハ会長や森喜朗の「報じられてこなかった素顔」に触れたときに不意に生じてしまった、親愛の念を巡る問いに由来する。

 

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国家権力者、すなわちコミュ力の世界頂上戦を極める人間の素顔や素肌に接してしまったら、たとえそれが鍛え抜かれた演技や演出であってしまっても、見る世界は一変してしまうだろう。その恐れがあるからこそ多くの人が過剰なまでに、全体主義という言葉を使ってまで落合氏に反発したわけだろう。が… こればかりは実際問題難しい。

 

 

とつらつら書いていたら、また別のアクティビストの香ばしい話題が上がっていた。

 

 

( ´ ¬`) 

 

象徴的な事件、喪失が起きると、色々な感情の昂ぶりや、耳目の集めやすさからPR好機とばかりに、言いすぎ・行き過ぎが必ず出るもので、まあ炎上狙いで自己のポジションやスタンスの色味を強烈に出していくのが最初から目的であるならどうしようもないのだが、何かと「人間性がめくれる」事態には気を付けたいところ。

 

7月10日0時。日付が変わった。Twitterのタイムラインからは安倍氏に関する話題の割合が随分減り、通常運行のネタが多く見られるようになった。明日(今日)の日中~夕方にかけては、何処の誰に投票した方が良いか、どこがトンデモ政党かを巡る選挙運動会場と化していることだろう。

 

 

しかし今回の銃撃事件での最大の発見は、緊急時にこそプロの業は冴えるという事実だった。

 

 

銃撃直後、新聞に速報が並び、現場の写真が付され、「いつものように通りがかりの人や選挙演説傍聴者が手元のスマホで撮っていた写真か…」と思いきや、朝日新聞Web版の写真は完成度が異様に高かった上に、何枚もクオリティが持続し、しかも時間の流れを刻んで事態の進行(銃撃から犯人取り押さえ、倒れる安倍氏)を的確に押さえていたのだ。

朝日新聞・上田真美記者の撮影である。

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ここでいう「クオリティ」「完成度」というのは、起きている事態を一定の距離感=客観性のもとで、個人の主観・感傷に揺さぶられることなく伝えるフォーマットを指す。これは報道の現場でしごかれて身に付けた、職業的訓練の賜物と言って良いだろう。突発的かつ凄惨な現場で感傷・動揺を交えず、的確に動きながら事件の流れ全体を追い、一定の距離を保ちつつ、取りこぼしなく事態をフレームに収めていく、これがどれほど困難な仕事であるか。

「プロの写真」という、まるで昭和のような言葉が脳裏にずっと響いていた。

 

 

こうした仕事を見られたことで、いつもの「動画の即応性、スマホの普及率によって、オールドメディアの”写真”は役目を終えたのだ」という諦念の確信めいたものは、ぱあっと霧消するがごとき思いがした。写真は、果たすべき役目がまだあると。

 

 

( ´ - ` ) 完。